慶長五年(1600年)8月25日は、安濃津城の戦い(あのつじょうのたたかい)が終わった日です。
戦ったのは以下の二人。
◆安濃津城の戦い
富田信高
vs
毛利秀元
「何じゃソレ? 地味な武将だな」
そう思われるかもしれませんが、年号をよくご覧ください。
慶長5年=1600年は【関ヶ原の戦い】があった年ですね(旧暦で9月15日)。
「徳川家康が一日で石田三成に勝った!」ことばかりがクローズアップされがちですが、実はその前後には、日本各地のアッチコッチで合戦があったのです。
日本中の大名が真っ二つに分かれて戦ったので、当然といえば当然でしょうか。
まさか「関ヶ原だよ! 全員集合!」なんてマンガみたいなことはできないですもんね。
というわけで今回は富田信高と安濃津城の戦いを見て参りましょう。
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東軍・富田信高1,700 vs 西軍・毛利30,000
本稿の舞台である安濃津城は伊勢国安濃津にあった城です。
今の三重県津市にあたります。
ここは富田信高という徳川方(東軍)の武将が守っており、そこへ豊臣方(西軍)の毛利秀元が率いる3万の軍勢が押し寄せてきたのです。
毛利秀元は、名前からもお察しの通り、毛利家の武将(毛利元就の孫・穂井田元清の息子)。
豊臣秀吉のお気に入りでもありました。
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一方の富田信高。
もともと小さな城の一大名である富田家ですから大国毛利に太刀打ちできるほどの兵がいるはずもなく、周辺の味方に援軍を頼んでも集まったのはたった1,700人。
これでは戦のしようがありません。
しかし信高は諦めませんでした。
援軍を出してくれた分部光嘉(わけべみつよし)と共に、自ら槍を振るって奮戦します。
その姿に勇気付けられたのか。
十倍以上の戦力差があるにも関わらず、富田軍は大いに健闘しました。
多勢に無勢に現れた白馬の騎士
しかし、多勢に無勢では、やはり限界があります。
ついに信高は敵兵に囲まれ、絶体絶命のピンチに陥りました。
「切腹できないのは残念だが、一人でも多く敵を討ち取ってやる!」
そんな覚悟を決めたとき、奇跡が起こりました。
城の正門から、一人の武士が信高を目指して駆け寄ってきたのです。
あちこちの史料で「容姿端麗な武士」「美しい若武者」と書かれているので、遠目からでもわかるほどの美丈夫だったのでしょう。
その武士は、小柄ながらに槍を翳して大奮戦。
迫る敵兵を何人もなぎ倒し、西軍を混乱に陥れます。
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