五代友厚と黒田清隆

五代友厚(左)と黒田清隆/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

五代は死の商人で黒田は妻殺し|知られざる薩摩コンビ暗黒の一面とは?

2025/08/24

明治33年(1900年)8月25日は薩摩藩出身の政治家・黒田清隆の命日です(正確には23日に没し、25日に公表)。

幕末の騒乱期には薩摩藩士として西郷隆盛を助け、新政府では第2代内閣総理大臣にも就任するなど。

薩長閥でもトップクラスの政治家と言えますが、一方で素行の悪さでも知られており、新政府最初の大スキャンダルとも言える【開拓使官有物払下げ事件】では渦中の人物になっています。

このとき共に糾弾されたのが、朝ドラで一躍話題になった“五代様”こと五代友厚。

2021年の大河『青天を衝け』にも登場していました。

と、そこでふと疑問に思いません?

なぜ、それほどまで偉大な人物が、今まであまり注目されてこなかったのか。

確かに五代友厚は、朝ドラの影響もあって知名度こそ高くなってきましたが、当人の歴史について大々的に語られる機会は少なく、二代目の首相にまで登り詰めた黒田清隆も同様。

そこで本稿では、歴史作品などでもあまり大々的に扱われない、五代友厚と黒田清隆の

「負の一面」

に注目してみたいと思います。

 


パリで暗躍 “死の商人”グラバーと手を組む

2021年『青天を衝け』では、大河としては『獅子の時代』に続いて、パリ万博での様子が描かれました。

メディアを操り、フランスで暗躍した人物が五代友厚。

『あさが来た』では広岡浅子を支え続けていたかのような五代ですが、史実においては別の商人と手を組んでいます。

武器商人トーマス・グラバーです。

トーマス・グラバー/wikipediaより引用

スコットランド出身のグラバーは明治維新を支えた商人として知られ、幕末期には

「私こそが最大のアンチ徳川」

と、うそぶいていました。

感情的に徳川が憎いという意味ではなく、あくまで武器を売るためです。

南北戦争終結後、アメリカでは武器が大量に余っていました。これをどう売り捌くか?

となれば、幕府と倒幕側で割れかけている日本は最適。

苦労して日本を植民地にするよりも、武器を売っぱらった方が手っ取り早く、実は利ざやまでもが大きい。

そんなグラバーと手を組んだのが五代友厚です。

五代友厚/国立国会図書館蔵

幕府を倒すためだから仕方ない?

いえ、そんなことはありません。

そもそも幕末において武力倒幕は、既定路線ではありませんでした。

土佐藩は無血革命路線を目指しており、坂本龍馬中岡慎太郎らはその実現に向けて動いておりました。

薩摩藩に重用された赤松小三郎もそうした志を抱き暗殺されてしまいます。

では誰が?

禁門の変】と【長州征討】の恨みを抱く長州藩?

抵抗勢力を叩き潰しておきたい薩摩藩?

いずれにせよ日本は戦火に包まれ、死の商人ことグラバーは笑いが止まらない。

五代もそうした商人の一人でした。

パリで幕府の権威を失墜させ、戊辰戦争のために武器を売る――そんな黒い一面があったのです。

 


明治の世で白眼視される五代

明治になると、五代友厚は参与職外国事務掛として政府に登用されました。

しかし程なくして官を辞して下野。

いったい何があったのか?

以前から、薩摩における五代の評価は散々でした。

「生活があまりに豪奢である」

「わがままで横暴だ」

そうした悪口が悪口で済まないのが明治時代。

【桜田門外の変】以来、日本には「気に入らぬものに天誅を下すことこそが正義だ!」という考えが広がっていて、このまま政府に仕えていたら、命の保証すらできない――。

五代が下野し、大阪へ向かった背景にはそんな事情があったのです。

大阪商工会議所前の五代友厚/Wikipediaより引用

これは五代本人というより、明治政府の構造に問題がありました。

武力討幕は既定路線ではないと、先程申し上げましたが、それは経済の観点からみても悪手でした。

武器にカネがかかる。

復興にも金がかかる。

それに伴う人的資源、時間も喪われる。

戦争とは最も悪手であることは何も現代での常識ではなく、藩主の父・島津久光も見抜いておりましたし、薩摩藩以外でも武力討幕には慎重な声がありました。

それを西郷隆盛や大久保利通などの武闘派が強引に押し通したのです。

西郷隆盛と大久保利通/wikipediaより引用

しかも、です。

多くの血を流し、赤字になるほど軍事費をかけたにも関わらず、明治維新の恩恵は鹿児島にまで及びませんでした。

中央からそれを宥めようとしたのが大久保であり、鹿児島の地で、そんな不満と向き合わねばならなかったのが西郷であり、西南戦争が起きるだけの不穏な材料は当初からあったのです。

そんな薩摩の地からすれば、戦争で儲け、政府でも要職にありつく五代など到底受け入れられません。

大河ドラマ『青天を衝け』では、なぜか渋沢栄一に本音を語っていた五代ですが、あれも同郷の薩摩に語り合える友がいなかったと考えれば、なんとも物悲しいものがありますね。

いや、本当は語り合える郷中仲間もいるのですが、ドラマには出てきませんでした。

五代友厚と同じく、黒い一面もある人物だからです。

それが黒田清隆でした。

 

ときは明治、泣く子も黙る薩摩閥

司馬遼太郎は、鹿児島県の鍛冶屋町を指してこう言いました。

「一町内で明治維新をやったようなもの」

西郷や大久保を筆頭にこの郷中から明治維新を成し遂げた人物が多く輩出され、さらには隣接する町内からも、錚々たる面々が輩出されております。

総理大臣の第4代松方正義。

第8代山本権兵衛

第2代黒田清隆。

そして五代友厚です。

かくも狭い範囲に傑物が同時期に集中したのか?

そんな偶然があるはずもなく、陸奥宗光は嘆きの言葉を残しています。

陸奥宗光/wikipediaより引用

「薩長の人に非ざれば殆ど人間に非ざる者のごとし」

薩長出身者でなければ、人間扱いされない――とは歴史の授業で習う【藩閥政治】のことですね。

日本の初代総理大臣が伊藤博文であり、その次の2代目が黒田清隆。『青天を衝け』としては非常に重要な関係です。

初代伊藤博文と渋沢栄一のコンビ。

2代黒田清隆と五代友厚のコンビ。

明治政府でも、彼等が重要な役割を果たしますが、いずれも非常にクセが強い者たちばかり。

例えば、渋沢栄一とテロ活動を通じて知り合っていたと思われる伊藤博文のコンビは、激しい女遊びという共通点もある。

女好きがもはや異常レベルの伊藤博文|女を掃いて捨てる箒(ほうき)と呼ばれ

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そして五代友厚とバディとなる黒田清隆も、伊藤&渋沢に勝るとも劣らないほど扱いが難しい人物です。

 


黒田清隆 功罪がある五代の友

フィクションにおいて、黒田清隆の人気はさほど高いとは思えません。

大河でもあまり出ておらず、2021年現在は以下の通り。

第6作『竜馬がゆく』(1968年)

第23作『春の波涛』(1985年)

第43作『新選組!』(2004年)

『青天を衝け』、五代友厚が主役の映画『天外者(てんがらもん)』にも出てきませんでした。

五代友厚がクローズアップされるなら、黒田清隆も出さないと不自然です。

さほどに関係が濃いのに、ナゼ出てこないのか?と言えば、彼もまた何かと黒い部分があるからかもしれません。

黒田清隆の人物評としては、薩摩隼人らしい豪胆さと度胸があり、あっと驚くようなアイデアを実現に移す実行力もある――まさに政治家タイプに思えてきます。

黒田清隆/wikipediaより引用

しかし、その一方でどこか詰めが甘い。

計画が尻すぼみとなって失敗したり、先を見据えたら結果はマイナスというなことも多い。

良くも悪くも熱血気質で、計画性に乏しいのです。

これは功罪両面あって、良い方に発揮されたのが【箱館戦争】における榎本武揚の処遇でしょう。

西軍の参謀だった黒田は、敵である榎本の才能を惜しみ、

「こげんよか将、殺したくなか!」

という一心で剃髪までして、助命を願ったのです。

その姿には榎本も感激し、後に明治政府へ出仕しました。

榎本武揚助命嘆願のため剃髪した黒田清隆(左)/wikipediaより引用

岩倉使節団に女子留学生を加えたのも、黒田の発案です。

新五千円札の顔となる津田梅子もいて、新たな歴史を刻むキッカケにもなっています。しかし……。

こうした美談にも続きがあります。

確かに榎本武揚は黒田に感激し、明治政府に出仕しました。

両者は、それぞれの子同士を結婚させ、ついには縁戚となってしまったのですから麗しき仲とも言えましょう。

ただし、こうした関係はマイナスにも作用します。

黒田は問題行動と性格的な欠陥により、徐々に政府内で干されてゆきます。

その黒田と結びついた榎本もまた同様に扱われ、その才能に見合うほどの活躍ができたかどうか、いささか疑問なのです。

女子留学生の派遣にしたってそうです。

津田梅子が功績を残したのは、彼女自身が粘り強く、強い意志で初志貫徹し、海外から援助を受けたからに他なりません。

明治23年(1890年)ブリンマー大学在学時の津田梅子/wikipediaより引用

津田はじめ女子留学生は、アメリカでその才能を絶賛され、日本に必ずや貢献するだろうと期待されて見送られました。

しかし、現実は違いました。

帰国すると日本側には受け入れ体制がない!

アメリカかぶれで嫁ぎ先もない女として扱われ、埋もれてしまいそうになりました。

津田はそれを跳ね除けたからこそ、現在に名を残しているのです。

彼女の設立した津田塾大学が私立であることからも、国が見捨てた跡が見てとれます。

留学生を送り出すだけでそのあとのケアをしない――そこにあるのは黒田の杜撰さです。

しかし薩摩の重鎮である西郷隆盛、そして大久保利通が斃れたあと、黒田は薩摩閥の中心人物として政府の重責を担うこととなりました。

黒田と経済面で彼を支えた五代友厚もまた同様。

亡き大久保利通の構想を引き継ぐ者であります。

『青天を衝け』で、渋沢栄一は大久保利通と対立しています。

にもかかわらず、大久保派の五代とは、どういうわけか親しげである。

要は、五代を使って渋沢を持ち上げるドラマの演出だったんですね。

実際は、それほど親しくしていたとは考えにくい関係でした。

 

黒田清隆のおそるべき罪

そんな黒田の足跡が色濃く残るのが北海道です。

札幌市大通公園西には、北海道開拓使長官としての黒田清隆像が立ち、街を見下ろしていますが、これも日本の歴史認識が取り残されている証拠かもしれません。

BLM運動以来、世界では銅像の撤去が進められております。

現代に名を残す歴史人には功罪あり、今は「功」のみを顕彰する時代ではなくなっている。

では黒田の罪とは?

いくつか列挙させていただきますので、皆様の目でご判断いただければと存じます。

◆樺太アイヌに壊滅的な大打撃を与えた【樺太・千島交換条約】

明治8年(1875年)に【樺太・千島交換条約】を決断したのは、黒田と榎本の功績とされます。

日露間の難しい問題を一刀両断したような果断――大国ロシアを黙らせようと思えば、やむを得ない決断といえばその通りです。

しかし、その背景にはイギリスがいました。

ロシアを牽制するため、ハリー・パークスが明治政府に無理やりねじ込んできたのです。

ハリー・パークス/Wikipediaより引用

英国に従い振る舞ったことは正しかったのか?

後世の歴史が判断すべきところではあり、今がまさしくそのときかもしれません。

同条約は樺太アイヌらの原住民に大打撃を与えました。

それまで国境に関係なく暮らしていた人々が日本人と認定されたため、樺太からの移住を強制されたのです。

結果、樺太アイヌの人口は激減しました。度重なる移住、食生活の変化、和人が持ち込んだ病原菌で一気に衰弱してしまったのです。

こうした歴史の側面に、フィクションが光を当てました。

2020年、直木賞を獲得した川越宗一氏の小説『熱源』は樺太アイヌが主役です。

2014年から連載が開始された『ゴールデンカムイ』では、樺太アイヌの父を持つアシリパが重要な役割を果たしており、海外でも高い評価を得ています。

2020年代において、もはや樺太アイヌの苦難は無視できなくなりました。

その大きな原因を作った黒田の罪は、もはや隠すことはできません。

黒田の罪は、他にもあります。

ただただ酷いというような事件がこれ。

◆船から大砲を撃ち、漁民を殺害

明治9年(1876年)のこと。黒田は船で小樽へ向かっておりました。

このとき黒田が突如、船上の大砲を陸地に向けて発射したのです。

砲弾は漁村にあった民家を直撃。

崩れ落ちた家の中には、まだ若い漁民の娘がいました。そして苦しみ抜いた末、家族が見ている前で亡くなったのです。

アナタがもしその家族だったら?

とても許せるものではないでしょう。

黒田が大砲を放たなければならない明確な理由など一つもありませんでした。

思いつくまま砲撃して、死者まで出した。それなのに、その責任は船長らが問われ、黒田は失脚を免れているのです。

◆酒乱DVで妻を殺し、組織的隠蔽の疑惑

薩摩隼人は「芋」と陰口を叩かれました。

芋焼酎で酔う姿からそう呼ばれたのですが、江戸っ子たちからすると、彼らの暴力沙汰が到底受け入れられなかったのです。

ただでさえ気性の激しい薩摩隼人――黒田は、その中でも屈指のバイオレンスでした。

明治11年(1878年)、黒田の妻・清が若くして亡くなっています。

肺病を患い、看病をしたがその甲斐なく……と表向きは発表されましたが、すぐさま噂が流れ、マスコミもスクープとして報道し始めます。

「黒田はえらい酒乱だ。どうやら泥酔して帰宅したとき、女房が口答えしたか、出迎えが遅れたとか、そんな理由で斬ってしまったようだ」

斬殺ではなく、蹴り殺した、あるいは殴り殺した……そんな声が止まないほど、黒田の暴力沙汰と酒乱は有名でした。

拳銃を持ち歩き、同僚に突きつけて脅したなんて噂もありましたが

「酒を飲んだ黒田なら、やりかねん」

と世間も納得し、風刺画まで出回ったほどです。

結果、どうなったか?

いくらなんでも政府上層部のDV殺人はまずい。明治時代でも庇いきれない。

大隈重信や伊藤博文らは法に基づいた処罰を訴えましたが、ここで反発したのが大久保利通です。

「黒田はオイん同郷んもんで、親しか友じゃ。オイはそん性格をよう知っちょっ。あや断じて妻を殺すような冷酷な男じゃなか。オイが保証すっ」

そして大久保は、警視庁初代大警視(現在の警視総監)である川路利良に捜査をさせました。

川路利良/wikipediaより引用

警察によると、黒田の妻の棺を開け確認したうえで、埋め戻したと言います。果たしてそれを鵜呑みにできるのか。

「みな見たじゃろう、他殺の跡はなかっ!」

「……」

もしも川路がそう宣言すれば、周囲で誰も口を挟めないでしょう。

薩摩閥の政治家たちはむしろ、このことを「仲間を庇う温情」とみなし仲間内で語り合っていたといいます

一方、こうした一連の流れを見た世間は恐れ慄きました。

「薩摩閥の権勢はこれほどのものか……殺人すら揉み消すことができるとは……」

現在、黒田の妻殺害疑惑については、“黒”として扱われています。

こうして、ただでさえ疑惑の目で見られる薩摩閥は、黒田のせいでさらに疑いの目が向けられるようになるのでした。

 

明治最大の疑獄事件【開拓使官有物払下げ事件】

民間人殺害も、妻DV殺人も、揉み消してきた黒田清隆。

そんな中、明治14年(1881年)、金銭が絡んだ醜聞が発生します。

『東京横浜毎日新聞』がおそるべき記事をスクープしたのです。

――北海道開拓使物産取扱所の所有物が、たったの2万円で、関西貿易商会に払い下げ――

にわかに世間は騒然とし始めました。

北海道開拓使とは、明治2年(1869年)に設けられた官庁であり、十年計画だったため、明治15年(1882年)に役目を終えました。

紆余曲折を経て、明治7年(1874年)から開拓使となっていたのが黒田清隆。

払い下げる予定だった「関西貿易商会」は五代友厚が率いていました。

これが明治時代最大の疑獄事件とされる【開拓使官有物払下げ事件】です。

五代友厚(左)と黒田清隆/wikipediaより引用

北海道には開拓使の土地、官舎、工場、牧場、農場、山林、船舶……莫大な財産がありました。

ここでも黒田の欠点である杜撰さが裏目に出たのでしょう。

原資は税金、しかも国家予算の1/4一にもあたる1400万円を注ぎ込み、その後、たったの2万円で払い下げるというのです。

事態が漏れ始めると、マスコミ各社が一斉に飛びつき、怒りの声が世間に満ちてゆきました。

北海道開拓計画は手探りであり、採算がとれないものもたくさんあった。信頼できる相手に一括で安く売り、利益を出してもらおう。

黒田がそう考えたのであれば、まだ弁明の余地はあるかもしれません。

確かに、この「五代相手の払下げ」については、近年新たな資料が見つかっています。

五代の関西貿易商会も払下げ先に含まれているものの、大半は、開拓使官吏によって結成される「北海社」相手であった――。

そう弁明している内容です。

五代は確かに潔白とも思えます。本人は表立って弁明していないため、彼に疑惑の目が向けられたのです。

そのため、2023年には教科書から開拓使については五代が黒とする記述は消えました。

じゃあ五代は真っ白なのか?と言いますと、当時の人々から見ればそうはならないのでしょう。

そもそも開拓使そのものが薩摩閥の牙城であり、北海社も薩摩閥の組織。

結局、身内で利益を回している点では、何も変わらない。

実際に、事件が報じられると、地元の北海道有志が払下げに名乗りを挙げましたが、ことごとく却下されてしまいました。

癒着は癒着だ――。

世間の怒りはおさまらず、ついに取り消しが決まります。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とはまさにこのこと。そもそも薩長以外の藩閥からすれば、出身藩だけで露骨に差別を受けています。

薩摩出身の五代が何を言おうと、怒りは増すばかりであったのでしょう。

では、この事件、朝ドラ『あさが来た』ではどう扱われたか?

五代は冤罪であり、マスコミのでっち上げによって誤解を受けたとされております。

それをお人よしではあれど無能だったはずの、ヒロイン夫が一瞬で証明するという無茶苦茶な展開でした。

大河ドラマ『青天を衝け』ではどう描かれたか?

弁明をしなかった五代が渋沢栄一相手に「青天白日!」と熱く無罪を主張していました。

この脚本家が同じNHKドラマ2作において、五代友厚の冤罪は証明されたと言えるのでしょうか?

どうにも描写が粗雑で、むしろ、もっとやりようがなかったのか?と疑念を覚えます。

 

そして【明治十四年の政変】へ

そもそも【開拓使官有物払下げ事件】がマスコミに知られたのはナゼなのか?

当時、このネタをリークしたと囁かれたのが大隈重信です。

大隈重信/wikipediaより引用

薩長閥が権勢を競う中、肥前佐賀藩出身者として気を吐き、合間を縫うようにして台頭してきていた。

薩長閥からすれば目障りな存在です。

「だったら、薩摩と肥前を一緒に追い落とせないか?」

そう企み、成功させた人物がいます。

長州閥の伊藤博文です。

伊藤博文/wikipediaより引用

事件の風評を利用し、陰謀を企んだとして大隈を罷免、追い落としたのです。

薩長土肥が藩閥政治を繰り広げる中、一気に長州閥を浮上させたこの一手は【明治十四年の政変】と呼ばれます。

追い落とされた大隈は野に降り、立憲改進党を結成。

同じく下野した人物の中には、郵便制度でお馴染みの前島密もおりました。

 

失墜した薩摩隼人たちのその後

黒田にせよ、五代にせよ。

事件が大事になる前に身を引いたせいか、この事件で完全に失脚したわけではありません。

ただ、周囲の反応は変化していきました。

同郷の薩摩隼人だけでなく、北海道開拓に絡んだ人物からも距離を置かれた形跡があるのです。

五代はその後、実業家として活動を続けたものの、事件から4年後の明治18年(1885年)、糖尿病により亡くなりました。

享年49。

結果的に彼は功績よりも【開拓使官有物払下げ事件】による汚名が印象に残る人物となり、教科書にまで反映されていました。

2023年に記述が改められたとはいえ、そうなると教科書そのものから名前が消える可能性はあります。それ以外では記述がないのです。

となると、五代友厚はNHKドラマからこうなるわけです。

「イケメンであさを助けた五代様」

渋沢栄一とスペシャルなライバル」

それでよいのかどうか、悩ましいところです。

黒田は、明治21年(1888年)から明治22年(1889年)まで、第2代内閣総理大臣をつとめております。

しかし内閣は短命に終わりました。

明治30年代ともなると病に罹り「あの人もボケちまったんじゃないか……」と囁かれるようになります。

黒田は醜聞と疑獄のため、権力と共に同郷の友人すら失っていたのです。

なんせ明治33年(1900年)に脳出血で亡くなると(享年59)、その葬儀を取り仕切ったのは薩摩隼人ではなく榎本武揚でした。

黒田を見限った中には、後妻も入っていました。

明治13年(1880年)、黒田は41歳で18歳の後妻・滝子を迎えています。

黒田滝子

後妻の黒田滝子/wikipediaより引用

夫の葬儀のあと、この滝子が姿を消したのです。

他の男と密通し、駆け落ちをしてしまったという噂が囁かれました。

夫に遅れること4年、滝子は明治37年(1904年)に亡くなりますが、このとき彼女の籍は黒田家からのぞかれていました。

何かがあったことは確かでしょう。

 

西の五代 東の渋沢 汚職の五代 女遊びの渋沢

『青天を衝け』の見所として、メディアではしばしばこの言葉が使われました。

西の五代、東の渋沢――。

経済業績だけでいえばそうかもしれません。

しかし、それはあくまで表向きのことであり、長州閥と親しい渋沢は、緩すぎる下半身事情が付きまといました。

伊藤博文や井上馨と遊んでいたと公言しているほどです。

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金銭面についても悪名高く、西郷隆盛井上馨のことを「三井の番頭さん」と呼んだことは言い得て妙かもしれません。

渋沢が本当に清廉潔白ならば、そうしたことを見逃したのでしょうか……。

では、第2代総理大臣・黒田清隆ら薩摩閥に属する五代友厚は?

明治の長州閥が、あまりに激しいため見落としがちになりますが、金銭については薩摩もなかなか汚い。

そしてその悪評の代表格が、黒田と親しい五代友厚でした。

政商の五代、女遊びの渋沢――。

こう言い換えることもできなくはない。

意地悪な見方かもしれませんが、それが史実です。

1997年、NHKにて『夜会の果て』というドラマが放映されました。

黒田清隆の後妻・滝子がヒロインをつとめ、劇中では財津一郎さんが黒田に取り入る政商として五代友厚を演じています。

ディーン・フジオカさんの“五代様”も悪くはありません。

しかし『夜会の果て』の再放送なりリメイクを望んでしまうことも確かです。

イケメン王子様ではなく、より史実に近い五代友厚も見たい――そう願ってしまう。

そこでは重厚な【開拓使官有物払下げ事件】と【明治十四年の政変】の描写を望むばかりです。


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【参考文献】
坂野潤治『未完の明治維新』筑摩書房・2007年(→amazon
一坂太郎『明治維新とは何だったのか』創元社・2017年(→amazon
皆村武一『『ザ・タイムズ』にみる幕末維新』中央公論新社・1998年(→amazon
泉秀樹『幕末維新人物事典』学研プラス・2010年(→amazon
桑原真人/我部政男『幕末維新論集9 蝦夷地と琉球』吉川弘文館・2001年(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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