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【五代と黒田の黒歴史】
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黒田清隆 功罪がある五代の友
フィクションにおいて、黒田清隆の人気はさほど高いとは思えません。
大河でもあまり出ておらず、2021年現在は以下の通り。
第6作『竜馬がゆく』(1968年)
第23作『春の波涛』(1985年)
第43作『新選組!』(2004年)
『青天を衝け』にも出てきませんでした。
五代友厚がクローズアップされるなら、黒田清隆も出さないと不自然。
さほどに関係が濃いのに、ナゼ出てこないのか?と言えば、彼もまた何かと黒い部分があるからかもしれません。
黒田清隆の人物評としては、薩摩隼人らしい豪胆さと度胸があり、あっと驚くようなアイデアを実現に移す実行力もある――まさに政治家タイプに思えてきます。
しかし、その一方でどこか詰めが甘い。
計画が尻すぼみとなって失敗したり、先を見据えたら結果はマイナスというなことも多い。
良くも悪くも熱血気質で、計画性に乏しいのです。
これは功罪両面あって、良い方に発揮されたのが【箱館戦争】における榎本武揚の処遇でしょう。
箱館戦争で土方が戦死し榎本が降伏するまで何が起きていた? 佐幕派最後の抵抗
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西軍の参謀だった黒田は、敵である榎本の才能を惜しみ、
「こげんよか将、殺したくなか!」
という一心で剃髪までして、助命を願ったのです。その姿には榎本も感激し、後に明治政府へ出仕しました。
岩倉使節団に女子留学生を加えたのも、黒田の発案です。
新五千円札の顔となる津田梅子もいて、新たな歴史を刻むキッカケにもなっています。しかし……。
こうした美談にも続きがあります。
確かに榎本武揚は黒田に感激し、明治政府に出仕しました。
両者は、それぞれの子同士を結婚させ、ついには縁戚となってしまったのですから麗しき仲とも言えましょう。
ただし、こうした関係はマイナスにも作用します。
黒田は問題行動と性格的な欠陥により、徐々に政府内で干されてゆきます。
その黒田と結びついた榎本もまた同様に扱われ、その才能に見合うほどの活躍ができたかどうか、いささか疑問なのです。
女子留学生の派遣にしたってそうです。
津田梅子が功績を残したのは、彼女自身が粘り強く、強い意志で初志貫徹し、海外から援助を受けたからに他なりません。
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津田はじめ女子留学生は、アメリカでその才能を絶賛され、日本に必ずや貢献するだろうと期待されて見送られました。
しかし、現実は違いました。
帰国すると日本側には受け入れ体制がない!
アメリカかぶれで嫁ぎ先もない女として扱われ、埋もれてしまいそうになりました。
津田はそれを跳ね除けたからこそ、現在に名を残しているのです。
彼女の設立した津田塾大学が私立であることからも、国が見捨てた跡が見てとれます。
留学生を送り出すだけでそのあとのケアをしない――そこにあるのは黒田の杜撰さです。
しかし薩摩の重鎮である西郷隆盛、そして大久保利通が斃れたあと、黒田は薩摩閥の中心人物として政府の重責を担うこととなりました。
黒田と経済面で彼を支えた五代友厚もまた同様。
亡き大久保利通の構想を引き継ぐ者であります。
『青天を衝け』で、渋沢栄一は大久保利通と対立しています。
にもかかわらず、大久保派の五代とは、どういうわけか親しげである。
要は、五代を使って渋沢を持ち上げるドラマの演出なんですね。
実際は、それほど親しくしていたとは考えにくい関係でした。
黒田清隆のおそるべき罪
そんな黒田の足跡が色濃く残るのが北海道です。
札幌市大通公園西には、北海道開拓使長官としての黒田清隆像が立ち、街を見下ろしていますが、これも日本の歴史認識が取り残されている証拠かもしれません。
BLM運動以来、世界では銅像の撤去が進められております。
現代に名を残す歴史人には功罪あり、今は「功」のみを顕彰する時代ではなくなっている。
では黒田の罪とは?
いくつか列挙させていただきますので、皆様の目でご判断いただければと存じます。
明治8年(1875年)に【樺太・千島交換条約】を決断したのは、黒田と榎本の功績とされます。
日露間の難しい問題を一刀両断したような果断――大国ロシアを黙らせようと思えば、やむを得ない決断といえばその通りです。
しかし、その背景にはイギリスがいました。
ロシアを牽制するため、ハリー・パークスが明治政府に無理やりねじ込んできたのです。
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英国に従い振る舞ったことは正しかったのか?
後世の歴史が判断すべきところではあり、今がまさしくそのときかもしれません。
同条約は樺太アイヌらの原住民に大打撃を与えました。
それまで国境に関係なく暮らしていた人々が日本人と認定されたため、樺太からの移住を強制されたのです。
結果、樺太アイヌの人口は激減しました。度重なる移住、食生活の変化、和人が持ち込んだ病原菌で一気に衰弱してしまったのです。
こうした歴史の側面に、フィクションが光を当てました。
2020年、直木賞を獲得した川越宗一氏の小説『熱源』は樺太アイヌが主役です。
2014年から連載が開始された『ゴールデンカムイ』では、樺太アイヌの父を持つアシリパが重要な役割を果たしており、海外でも高い評価を得ています。
2020年代において、もはや樺太アイヌの苦難は無視できなくなりました。
その大きな原因を作った黒田の罪は、もはや隠すことはできません。
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黒田の罪は、他にもあります。
ただただ酷いというような事件がこれ。
◆船から大砲を撃ち、漁民を殺害
明治9年(1876年)のこと。黒田は船で小樽へ向かっておりました。
このとき黒田が突如、船上の大砲を陸地に向けて発射したのです。
砲弾は漁村にあった民家を直撃。
崩れ落ちた家の中には、まだ若い漁民の娘がいました。そして苦しみ抜いた末、家族が見ている前で亡くなったのです。
アナタがもしその家族だったら?
とても許せるものではないでしょう。
黒田が大砲を放たなければならない明確な理由など一つもありませんでした。
思いつくまま砲撃して、死者まで出した。それなのに、その責任は船長らが問われ、黒田は失脚を免れているのです。
◆酒乱DVで妻を殺し、組織的隠蔽の疑惑
薩摩隼人は「芋」と陰口を叩かれました。
芋焼酎で酔う姿からそう呼ばれたのですが、江戸っ子たちからすると、彼らの暴力沙汰が到底受け入れられなかったのです。
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ただでさえ気性の激しい薩摩隼人。
黒田は、その中でも屈指のバイオレンスでした。
明治11年(1878年)、黒田の妻・清が若くして亡くなっています。
肺病を患い、看病をしたがその甲斐なく……と表向きは発表されましたが、すぐさま噂が流れ、マスコミもスクープとして報道し始めます。
「黒田はえらい酒乱だ。どうやら泥酔して帰宅したとき、女房が口答えしたか、出迎えが遅れたとか、そんな理由で斬ってしまったようだ……」
斬殺ではなく、蹴り殺した、あるいは殴り殺した……そんな声が止まないほど、黒田の暴力沙汰と酒乱は有名でした。
拳銃を持ち歩き、同僚に突きつけて脅したなんて噂もありましたが
「酒を飲んだ黒田なら、やりかねん」
と世間も納得し、風刺画まで出回ったほどです。
結果、どうなったか?
いくらなんでも政府上層部のDV殺人はまずい。明治時代でも庇いきれない。
大隈重信や伊藤博文らは法に基づいた処罰を訴えましたが、ここで反発したのが大久保利通です。
「黒田はオイん同郷んもんで、親しか友じゃ。オイはそん性格をよう知っちょっ。あや断じて妻を殺すような冷酷な男じゃなか。オイが保証すっ」
そして大久保は、警視庁初代大警視(現在の警視総監)である川路利良に捜査をさせました。
その警察によると、黒田の妻の棺を開け確認したうえで、埋め戻したと言います。果たしてそれを鵜呑みにできるのか。
「みな見たじゃろう、他殺の跡はなかっ!」
「……」
もしも川路がそう宣言すれば、周囲で誰も口を挟めないでしょう。
薩摩閥の政治家たちはむしろ、このことを「仲間を庇う温情」とみなし仲間内で語り合っていたといいます
一方、こうした一連の流れを見た世間は恐れ慄きました。
「薩摩閥の権勢はこれほどのものか……殺人すら揉み消すことができるとは……」
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現在、黒田の妻殺害疑惑については、“黒”として扱われています。
こうして、ただでさえ疑惑の目で見られる薩摩閥は、黒田のせいでさらに疑いの目が向けられるようになるのでした。
明治最大の疑獄事件【開拓使官有物払下げ事件】
民間人殺害も、妻DV殺人も、揉み消してきた黒田清隆。
そんな中、明治14年(1881年)、金銭が絡んだ醜聞が発生します。
『東京横浜毎日新聞』がおそるべき記事をスクープしたのです。
――北海道開拓使物産取扱所の所有物が、たったの2万円で、関西貿易商会に払い下げ――
にわかに世間は騒然とし始めました。
北海道開拓使とは、明治2年(1869年)に設けられた官庁であり、十年計画だったため、明治15年(1882年)に役目を終えました。
紆余曲折を経て、明治7年(1874年)から開拓使となっていたのが黒田清隆。
払い下げる予定だった「関西貿易商会」は五代友厚が率いていました。
これが明治時代最大の疑獄事件とされる【開拓使官有物払下げ事件】です。
北海道には開拓使の土地、官舎、工場、牧場、農場、山林、船舶……莫大な財産がありました。
ここでも黒田の欠点である杜撰さが裏目に出たのでしょう。
原資は税金、しかも国家予算の1/4一にもあたる1400万円を注ぎ込み、その後、たったの2万円で払い下げるというのです。
事態が漏れ始めると、マスコミ各社が一斉に飛びつき、怒りの声が世間に満ちてゆきました。
北海道開拓計画は手探りであり、採算がとれないものもたくさんあった。信頼できる相手に一括で安く売り、利益を出してもらおう。
黒田がそう考えたのであれば、まだ弁明の余地はあるかもしれません。
確かに、この「五代相手の払下げ」については、近年新たな資料が見つかっています。
五代の関西貿易商会も払下げ先に含まれているものの、大半は、開拓使官吏によって結成される「北海社」相手であった――。
そう弁明している内容です。五代は確かに潔白とも思えます。本人は表立って弁明していないため、彼に疑惑の目が向けられたのです。
そのため、2023年には教科書から開拓使については五代が黒とする記述は消えました。
じゃあ五代は真っ白かと言いますと、当時の人々から見ればそうはならないのでしょう。
そもそも開拓使そのものが薩摩閥の牙城であり、北海社も薩摩閥の組織。
結局、身内で利益を回している点では、何も変わらない。
実際に、事件が報じられると、地元の北海道有志が払下げに名乗りを挙げましたが、ことごとく却下されてしまいました。
癒着は癒着だ――。
と、世間の怒りはおさまらず、ついに取り消しが決まります。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とはまさにこのことでしょう。そもそも薩長以外の藩閥からすれば、出身藩だけで露骨に差別を受けています。
薩摩出身の五代が何を言おうと、怒りは増すばかりであったのでしょう。
では、この事件、朝ドラ『あさが来た』ではどう扱われたか?
五代は冤罪であり、マスコミのでっち上げによって誤解を受けたとされております。
それをお人よしではあれど無能だったはずの、ヒロイン夫が一瞬で証明するという無茶苦茶な展開でした。
気になるのは『青天を衝け』ではどう描かれたか?
弁明をしなかった五代が渋沢栄一相手に、「青天白日!」と熱く無罪を主張していました。
この脚本家が同じNHKドラマ2作において、五代友厚の冤罪は証明されたと言えるのでしょうか?
どうにも描写が粗雑で、むしろもっとやりようがなかったのか疑念を覚えます。
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