土岐頼純/wikipediaより引用

斎藤家

土岐頼純は道三に暗殺されたのか?骨肉の争いの果てに【美濃戦国譚】

織田信長にとっての今川義元にせよ、武田信玄にとっての村上義清にせよ、毛利元就にとっての陶晴賢にせよ。

戦国大名には、後に大きく飛躍するためのキッカケとなる人物がいるものですが、あの【美濃のマムシ】として恐れられた斎藤道三にも「噛ませ犬」的なキーマンがおりました。

それが土岐頼純です。

普段はほとんど注目されないこの武将。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』では、非常に重要な役どころになる可能性もあります。

出番は少ないながら、それでも当時の政局に一石を投じる――土岐頼純の生涯を追ってみましょう。

 

土岐頼純の父とおじが対立する美濃国に生誕

土岐頼純は大永4年(1524年)、美濃国守護の家系である土岐頼武の長男として生まれました。

伯父には美濃守護の土岐頼芸(頼武の兄)。
そんな名族の生まれでしたが、当時の美濃国は土岐氏の勢力が衰退しており、家臣であったはずの長井氏や斎藤氏が主家をしのぐ勢いで台頭していました。

さらに周辺諸国の六角氏や朝倉氏の介入もみられ、非常に不安定な政情にあったのです。

こうした諸勢力の対立は、土岐政房の息子同士である頼武・頼芸兄弟の仲違いにも繋がりました。

政房は長男だった頼武を軽んじて頼芸を後継者に据えようとします。
が、斎藤氏の有力者であった斎藤利良が政房の意向に反して頼武を担ぎ出したところから、両者は骨肉の争いに明け暮れることに…。

永正15年(1517年)に最初の戦が発生すると、緒戦は一進一退の攻防を繰り広げました。そして最終的には、政房・頼芸親子の勝利で幕を閉じ、利良は頼武を連れて彼らに友好的であった越前朝倉氏のもとへ落ち延びてゆきます。

政争を制した頼芸は無事に美濃国主の座に就く……と思われましたが、ここで不幸にも最大の支持者であり、父である政房が亡くなってしまうのです。

 

頼武が朝倉氏の力を背景に家督を継承

「チャンス到来!」
とばかりに息巻いたのが斎藤利良でした。

利良は、頼武を連れて帰国すると、現在の岐阜県山県市にあった大桑城を本拠とし、もともと頼武が嫡男であるという正当性や、朝倉氏の力を背景に家督を継承するのです。

以後、美濃国にはひとときの平和が訪れました。
頼武は守護として治世を行っていた形跡が確認でき、利良も彼の右腕として活躍していたのでしょう。

しかし、美濃国主の座を諦めなかったのが土岐頼芸です。

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頼芸は、当時朝倉・六角氏と対立していた浅井氏の支持を得ると、大永5年(1525年)に挙兵。この時は見事な勝利を収め、利良を戦死させるとともに、頼武を歴史上から消し去りました。

明確に死亡したという記録はありませんが、消息が絶たれたことから頼武はこのとき死亡したと考えてもよいでしょう。

以上ここまで、頼純の父である土岐頼武と、おじである頼芸による政争の経過を記してきました。

土岐頼純に何の関係が?
と思われたかもしれませんが、大いにありまして。

実は、頼武・頼純親子には「同一人物説」があり、その場合「頼武の生涯」とされている部分も「頼純の生涯」と考えられるのです。

 

朝倉氏・六角氏の力を背景に美濃へ帰国

頼武が歴史上から姿を消した大永5年、頼純はまだ数え年で2歳という幼さでした。

しかし、国内の政争で父が敗れて頼芸が国主の座に就いたため、幼き頼純の立場もかなり怪しくなります。
頼芸にしてみれば「平清盛から見た源頼朝」のように将来の敵になる可能性もありましたし、それ以上に「頼武派」にとって格好の旗印になりかねなかったからです。

要は、息子の土岐頼純を担ぐ連中を危惧したんですね。

となれば、先に甥の頼純も消し去りたかったはず。

しかし、頼武・頼純を支持した一派とて、その点、注意しないワケがありません。おそらくや彼らの手引きによって、頼純は近江国に亡命、当時まだ勢いのあった六角氏に匿われていたと推測されます。

一方、守護の座に就いたばかりの頼芸に、近江国を攻める余裕などありません。
彼はいったん頼純を捨て置き、国内の支配体制構築に注力しました。

当時の美濃では、すでに斎藤道三が台頭しており、頼芸は道三と二人三脚で国政を動かしていました。

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しかし、天文4年(1535年)になると美濃に戦乱の影が確認できるようになり、周辺事情はキナ臭くなっていきます。

おそらくや頼純の帰国を実現させるために発生した小規模な合戦――これが翌天文5年まで続き、この小競り合いの結果、頼芸陣営は頼純の帰国と父の遺城であった大桑城の支配を認めざるを得なくなります。

頼純帰国の背景には、彼を支援した朝倉氏・六角氏の力がありました。
彼らは頼純の帰国を心から願っていたというより、頼芸・道三を美濃国主から引きずり落とすのが狙いであり、頼純を大義名分として利用したのでしょう。

結果としてその目的を果たすまではいきませんが、頼芸と頼純は国内で権力を二分する形となり、さながら「二頭体制」が敷かれるようになります。

 

尾張の織田信秀に助けられ

頼純と頼芸の講和によってひとときの平和が訪れた美濃。

天文12年(1544年)にふたたび彼らの間で争いが発生します。大桑城に入っていた頼純が道三によって攻め込まれたものと思われ、彼は母とともに命からがら城を脱出するのです。

このとき彼らを助けたのは、隣国・尾張で勢力を拡大しつつあった織田信秀でした。

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勢力拡大の過程で美濃侵略を目論んでいた信秀は、頼純を支援することで道三の追い落としにかかったのでしょう。

頼純母子は尾張に逃げ込むと、信秀は朝倉氏にも出兵を要請。天文13年(1545年)、織田・朝倉連合軍と頼芸勢力の大規模な戦が幕を開けました。

この戦は序盤こそ信秀の思惑通り優勢に進んでいる……かに思えたものの、一説によると、この頼芸軍の苦戦はあくまで道三の計略でした。彼らは稲葉山城に敵軍を引き寄せ、油断したところに猛攻撃を浴びせたようです。

結果として信秀は大敗し、頼純も帰国を果たすことはできませんでした。

 

後に信長の正妻となる帰蝶と結婚?

織田信秀を追い返した手腕――さすがは戦国三大梟雄の道三といったところです。

信秀としてもこの結果は予想外だったのではないでしょうか。

ただし、戦勝の要因は計略だけに限りません。

道三はかねてより好意的であった浅井氏を味方につけただけでなく、先の頼純入国に際しては敵対していた六角氏と土岐氏の間に婚姻関係を構築。彼らの協力を得るという外交努力も欠かさなかったのです。

望みを絶たれた頼純は入国を叶えることができませんでしたが、次の一手を講じます。
彼は朝倉軍と共に越前に入ると、朝倉氏のコネクションを通じて室町幕府に働きかけ、外交によって頼芸との講和を結ぼうとしました。

結果、天文15年(1547年)にその外交努力が実を結び、六角氏や朝倉氏の仲介もあって両者の間に正式な講和が成立しました。

内容はハッキリ不明ながら、以下の三項目が同意されたもようです。
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