こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【土岐頼純】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
講和直後に不慮の死を遂げる
いよいよ土岐頼純の守護就任――そう思われた矢先、天文16年(1547年)のことでした。
頼純が突如、不慮の死を遂げます。
ハッキリとした死因は不明ですが、享年24というのは、背後で何か恐ろしい事態があったと考えるのは自然なことでしょう。
頼純は、後に国主になる斎藤道三と敵対していたことから、
「道三に暗殺されたのだ!」
と考えるのが自然の流れかもしれません。
実際、文献によっては「暗殺」だったと明確に定義しているものもあります。
確かに、道三はこの時点で美濃国乗っ取りの構想がゼロではなかったでしょうから、下剋上の障害になりそうな頼純を消す理由は十分に存在します。
彼の性格を考えても、仮にそれが必要なことであればためらわずに実行するだけの決断力もあったでしょう。
大河ドラマ『麒麟がくる』でもそのように描かれていましたが、史実における「道三による暗殺説」は状況証拠に基づく推論でしかなく、本当のところはわかりません。
道三は朝倉氏や六角氏の仲介を経て講和に臨んでおり、結果として娘を嫁入りさせています。
講和をアッサリと反故にしてしまえば彼らの顔に泥を塗ることにもなるでしょうし、対立していた織田信秀がふたたび攻め込んでくることは目に見えています。
そうした点を考慮に入れても「価値のある暗殺」と感じたのかもしれません。まぁ、あくまで推測ですが……。
最後に【頼武・頼純親子の同一人物説】を検証しておきましょう。
頼武・頼純親子は同一人物なのか?
彼らを同一人物とみなす根拠はいくつかあります。
『土岐家譜』という史料では頼純の享年が49になっており、これは頼武の推定できるおおよその享年とほぼ一致するのです。
また、記事内でも触れたように「頼武が死んだという記録」は残っておらず、さらに当時の文書において、頼武・頼純はどちらも「土岐次郎」という名前で表現されています。
確かに、頼武と頼純の生涯はうまく接続することができるので、同一人物であったとしても不思議はないでしょう。
実際、講談社が提供している『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』においては、頼純の項に頼武のものと思われる事績が書かれています。
しかし、近年の斎藤氏関係の書籍などを見てみると、どうやら頼武と頼純は別人であるという認識のもとで研究が進められているようです。
根拠としては『実隆公記』という史料で
「大永四年(1524年)三条西実隆(日記の著者)が土岐の男子誕生を祝って太刀を進呈した」
という記載が確認でき、これが頼純を指すものと推定されているからです。
したがって、やはり「頼武と頼純は親子であり、同時に別人である」と考えるべきでしょう。
別人だとしたら大永4年に頼純が生まれ、翌年に父が死ぬとは、不謹慎ですがなんと紛らわしいこと……。
実に歴史家泣かせの親子なのでした。
あわせて読みたい関連記事
道三に追われ信玄に拾われた土岐頼芸~美濃の戦国大名83年の生涯
続きを見る
なぜ朝倉義景は二度も信長を包囲しながら逆に滅ぼされたのか?41年の生涯まとめ
続きを見る
なぜ平清盛は平家の栄華を極めながらすぐに衰退させてしまったのか
続きを見る
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?
続きを見る
斎藤道三は如何にして成り上がったか? マムシと呼ばれた戦国大名63年の生涯
続きを見る
織田信秀(信長の父)は経済も重視した勇将~今川や斎藤と激戦の生涯
続きを見る
織田信秀(信長の父)は経済も重視した勇将~今川や斎藤と激戦の生涯
続きを見る
文:とーじん
【参考文献】
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興(戎光祥出版)』(→amazon)
木下聡『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏(岩田書院)』(→amazon)