こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【土岐頼純】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
朝倉氏・六角氏の力を背景に美濃へ帰国
頼武が歴史上から姿を消した大永5年、土岐頼純はまだ数え年で2歳という幼さでした。
しかし、国内の政争で父が敗れて頼芸が国主の座に就いたため、幼き頼純の立場もかなり怪しくなります。
頼芸にしてみれば「平清盛から見た源頼朝」のように将来の敵になる可能性もありましたし、それ以上に「頼武派」にとって格好の旗印になりかねなかったからです。
要は、息子の土岐頼純を担ぐ連中を危惧したんですね。
となれば、一刻も早く甥の頼純を消し去りたかったはず。
しかし、頼武・頼純を支持した一派とて、その点、注意しないワケがありません。
おそらく彼らの手引きによって、頼純は近江国に亡命、当時まだ勢いのあった六角氏に匿われていたと推測されます。
一方、守護の座に就いたばかりの頼芸に、近江国を攻める余裕などありません。
彼はいったん頼純を捨て置き、国内の支配体制構築に注力しました。
当時の美濃では、すでに斎藤道三が台頭しており、頼芸は道三と二人三脚で国政を動かしていました。
しかし、天文4年(1535年)になると美濃に戦乱の影が確認できるようになり、周辺事情はキナ臭くなっていきます。
おそらく頼純の帰国を実現させるために発生した小規模な合戦――これが翌天文5年まで続き、この小競り合いの結果、頼芸陣営が「頼純の帰国」と父の遺城であった「大桑城の支配」を認めざるを得なくなります。
頼純帰国の背景には、彼を支援した朝倉氏・六角氏の力がありました。
彼らは頼純の帰国を心から願っていたというより「頼芸・道三を美濃国主から引きずり落とす」のが狙いであり、頼純を大義名分として利用したのでしょう。
結果としてその目的を果たすまではいきませんが、頼芸と頼純は国内で権力を二分する形となり、さながら「二頭体制」が敷かれるようになります。
尾張の織田信秀に助けられ
頼純と頼芸の講和によってひとときの平和が訪れた美濃。
天文12年(1544年)に再び彼らの間で争いが発生します。
大桑城に入っていた頼純が道三によって攻め込まれたものと思われ、彼は母とともに命からがら城を脱出するのです。
このとき彼らを助けたのは、隣国・尾張で勢力を拡大しつつあった織田信秀でした。
織田信長の父ですね。
勢力拡大の過程で美濃侵略を目論んでいた信秀は、頼純を支援することで道三の追い落としにかかったのでしょう。
頼純母子は尾張に逃げ込むと、信秀は朝倉氏にも出兵を要請。
天文13年(1545年)、織田・朝倉連合軍と頼芸勢力の大規模な戦が幕を開けました。
この戦は序盤こそ信秀の思惑通り優勢に進んでいる……かに思えたものの、一説によると、この頼芸軍の苦戦はあくまで道三の計略でした。
彼らは稲葉山城に敵軍を引き寄せ、油断したところに猛攻撃を浴びせたようです。
結果として信秀は大敗し、頼純も帰国を果たすことはできませんでした。
後に信長の正妻となる帰蝶と結婚?
織田信秀を追い返した手腕――さすがは戦国三大梟雄の道三といったところです。
信秀としてもこの結果は予想外だったのではないでしょうか。
ただし、戦勝の要因は計略だけに限りません。
道三はかねてより好意的であった浅井氏を味方につけただけでなく、先の頼純入国に際しては敵対していた六角氏と土岐氏の間に婚姻関係を構築。
彼らの協力を得るという外交努力も欠かさなかったのです。
望みを絶たれた頼純は入国を叶えることができませんでしたが、次の一手を講じます。
彼は朝倉軍と共に越前に入ると、朝倉氏のコネクションを通じて室町幕府に働きかけ、外交によって頼芸との講和を結ぼうとしました。
結果、天文15年(1547年)にその努力が実を結び、六角氏や朝倉氏の仲介もあって両者の間に正式な講和が成立しました。
内容はハッキリ不明ながら、以下の三項目が同意されたもようです。
三項目とは次の通り。
①頼純の美濃入国
②頼芸の守護退任と頼純の次期守護内定
③道三娘の嫁入り
③の道三娘とは、後に織田信長の正妻となる帰蝶(濃姫)ではないか?とする指摘もあります。
いずれにせよ、こうして頼純は、本来父が手にするはずだった守護の座をようやく手中に収めるかに思われました。
※続きは【次のページへ】をclick!