土岐頼純/wikipediaより引用

斎藤家

土岐頼純は道三に暗殺されたのか?骨肉の争いの果てに【美濃戦国譚】

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三項目とは次の通り。

①頼純の美濃入国

②頼芸の守護退任と頼純の次期守護内定

③道三娘の嫁入り

斎藤道三の娘とは、後に織田信長の正妻となる帰蝶濃姫)ではないか?とする指摘もあり、もしかしたら大河ドラマ『麒麟がくる』では、そんな描写があるかもしれませんね。

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いずれにせよ、こうして頼純は、本来父が手にするはずだった守護の座をようやく手中に収める……かに思われました。

 

講和直後に不慮の死を遂げる

いよいよ土岐頼純の守護就任――そう思われた矢先、天文16年(1547年)のことでした。

頼純が突如、不慮の死を遂げます。
ハッキリとした死因は不明ですが、享年24というのは、背後で何か恐ろしい事態があったと考えるのは自然なことでしょう。

頼純は、後に国主になる斎藤道三と敵対していたことから、
「道三に暗殺されたのだ!」
と考えるのが自然の流れかもしれません。

実際、文献によっては「暗殺」だったと明確に定義しているものもあります。

確かに、道三はこの時点で美濃国乗っ取りの構想がゼロではなかったでしょうから、下剋上の障害になりそうな頼純を消す理由は十分に存在します。彼の性格を考えても、仮にそれが必要なことであればためらわずに実行するだけの決断力もあったでしょう。

ただし、言うまでもないことですが「道三による暗殺」説はすべて状況証拠に基づいて導き出される推論でしかなく、本当のところはわかりません。

道三は朝倉氏や六角氏の仲介を経て講和に臨んでおり、結果として娘を嫁入りさせています。
講和をアッサリと反故にしてしまえば彼らの顔に泥を塗ることにもなるでしょうし、対立していた織田信秀がふたたび攻め込んでくることは目に見えています。

無論、そうした点を考慮に入れても「価値のある暗殺」と感じたのかもしれませんし、暗殺の真否については現状残されている史料から答えを出すことは不可能です。

 

頼武・頼純親子は同一人物なのか?

最後に【頼武・頼純親子の同一人物説】を検証していきます。

彼らを同一人物とみなす根拠はいくつかあります。

『土岐家譜』という史料では頼純の享年が49になっており、これは頼武の推定できるおおよその享年とほぼ一致するのです。また、記事内でも触れたように頼武が死んだという記録は残っておらず、さらに当時の文書において、頼武・頼純はどちらも「土岐次郎」という名前で表現されています。

確かに、頼武と頼純の生涯はうまく接続することができるので、同一人物であったとしても不思議はないでしょう。

実際、講談社が提供している『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』においては、頼純の項に頼武のものと思われる事績が書かれています。

がしかし、近年の斎藤氏関係の書籍などを見てみると、どうやら頼武と頼純は別人であるという認識のもとで研究が進められているようです。

根拠としては『実隆公記』という史料に「大永四年(1524年)三条西実隆(日記の著者)が土岐の男子誕生を祝って太刀を進呈した」という記載が確認でき、これが頼純を指すものと推定されているからです。

したがって、やはり「頼武と頼純は親子であり、同時に別人である」と考えるべきでしょう。

しかし、別人だとしたら大永4年に頼純が生まれ、翌年に父が死ぬとは、不謹慎ですがなんと紛らわしいこと……。
実に歴史家泣かせの親子なのでした。

文:とーじん

【参考文献】
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
『斎藤道三と義龍・龍興(戎光祥出版)』(→amazon
「総論 美濃斎藤氏の系譜と動向」『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏(岩田書院)』(→amazon

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