【関ヶ原の戦い】で西軍につき、その後、九度山で幽閉生活を送っていた真田昌幸と幸村の親子。
大河ドラマ『真田丸』でも、信繁(堺雅人さん)と昌幸(草刈正雄さん)の親子が、寂しげに過ごしていた様子が描かれたものです。
現実の九度山は以下の記事にもありますように、
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高野山の麓にある寒さ厳しい山奥の村で、晩年の昌幸は相当厳しい生活だったと伝わっております。
良くも悪くも【表裏比興の者(ころころ態度を変えるずるいヤツ)】と警戒された智将の面影は皆無となり、最期は金の無心をしたり無気力な発言を繰り返したり、なんとも情けない姿だったなんて話も。
これは一体、どうしたことでしょう。
極寒かつ侘びしい山中の生活。
それが人の健康・精神にどんな作用を及ぼすのか?
真田昌幸の死因について診察してみます。
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武田・上杉・徳川・北条を巧みに渡り歩き……
幼い頃は武田信玄の小姓として気に入られ、昔から頭の良さを知られていた真田昌幸。
武田勝頼の代になって武田家が滅亡すると上杉・徳川・北条の大国に囲まれ、ここから「表裏比興」の能力を発揮します。
いわゆる【天正壬午の乱】ですね。
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周囲の状況に応じて手を組む相手をコロコロ変え、最終的には豊臣秀吉のお墨付きを得て、独立大名のポジション手に入れたのです。
ここからは話をガツンと飛ばして、1600年(慶長5年)の7月へ。
徳川家康の呼びかけで挙兵した「上杉景勝討伐」に真田一族も参加すると、その後、同家の運命は大きく分岐します。
そうです、関ヶ原の戦いです。
畿内で挙兵した石田三成の西軍に昌幸と幸村が味方すると、その一方で長男・真田信之は東軍の家康に付いたのです。
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親子・兄弟が敵味方に分かれて戦うことは武士の定めかもしれませんが、このとき昌幸の三男・四男も東軍についたのは、意外と知られてないのでは?
真田の豆知識ですのでお召し上がれ♪
ともかく西軍の旗を掲げ、上田城にこもった昌幸・幸村は凄まじい活躍を見せました。
3万5千の徳川本隊を引き連れ、中山道を通ってきた徳川秀忠軍に手痛い一撃を与え、結果的に関ヶ原への参戦を阻みます。
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その痛快劇たるやあまりに鮮やか過ぎて、居酒屋トークで7時間ぐらいは話せるレベルですが、本題へと進めましょう。
昌幸の悲惨な晩年はここからです。
命だけは救われたが、高野山から九度山へと
真田親子の奮闘むなしく関ヶ原の西軍は一日足らずで崩壊。
敗北した真田昌幸・幸村親子もタダではすみませんでした。
当然ながら“死罪”が申しつけられたワケで、もしも、この段階で2人が切腹していれば大河ドラマ『真田丸』も生まれなかったでしょう。
両者は、長男・信之と、その義父にして徳川四天王の一人・本多忠勝の必死の助命嘆願により命だけは救われ、まずは高野山へ流罪となります。
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昌幸55歳、幸村は33歳。
その後、『幸村が嫁と暮らしたい』と願ったため、女人禁制の高野山から近所の九度山へお引越し。
実は、高野山が極寒過ぎて生活するのが辛いから……という話も根強いですが、私が調べた結果、信州上田の気温とあんまり変わらないんですよね。
これは困りました><;
しかし、それまでの「立派な住居」と、流配地の「粗末な家」では防寒設備が格段に違い、実際の寒さははるかに厳しいのではないでしょうか。
高野山近辺では、日中の寒暖差が激しい土地であったことは確かなようですし。
ちなみに真田幸村の奥さんは、豊臣政権の名将・大谷吉継の娘でした。
幸村が、その婿として大きな期待を寄せられていたことがご理解できるでしょう。徳川の世にならなければ弟の方が兄より出世していた可能性は否定できません。
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