真田幸隆(真田幸綱)

真田幸隆(真田幸綱)/wikipediaより引用

真田家

信玄の快進撃を支えた真田幸綱(幸隆)子の昌幸や孫の幸村へ繋げた生涯62年

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永禄4年は真田飛躍の年

こうした幸綱の活躍ラッシュの中、天文22年(1553年)。

真田氏はついに本領回復を果たします。

念願の土地に戻ると同時に、幸綱の三男・源五郎が人質として、武田氏の本拠地である甲府に送られます。

この源五郎は、奥近習衆(主君の身の回りの世話をする)となり、武田一門に連なる武藤氏の跡を継いで武藤喜兵衛尉と名乗ることとなります。

人質という慣習は、現代人からすると残酷なようにも思えます。

しかし、前述した国衆の性質を考えると合理性があります。

要は、離反の食い止めであり、忠誠心の篤いエリート家臣を育成する手段として機能しました。

幸綱は、川中島方面の攻略と防衛において、その存在感を発揮します。

・弘治2年(1556年)雨(尼)飾城攻略

・永禄3年(1560年)海津城築城

・永禄4年(1561年)岩櫃城、岳山城、箕輪城、白井城、築城

活躍の場は信濃だけではありません。

上野吾妻郡攻略においても、滋野一族・鎌原氏を支援し、嫡子・真田信綱とともに岩下城を攻略。岩櫃城に入り、吾妻郡を掌中におさめたのでした。

永禄4年は、まさに真田飛躍の年――。

一族の多大なる貢献を評価し、信玄は吾妻郡の支配を委ねます。猛者揃い武田氏の宿老として、北上野支配を担ったのです。

 

真田一族は、本来の領地である小県よりも大きな土地を手にしました。

この真田のよる北上野支配は、真田一族の動きを把握するうえで非常に重要なポイントとなります。

永禄10年(1567年)頃。

幸綱は隠居し、家督を嫡男・信綱にゆずりました。

その七年後の天正2年(1574年)、享年62で息を引き取ります。

天正元年(1573年)に信玄の死を看取った、その翌年でした。

さらにその翌年(1575年)。優秀な将として期待されていた真田幸綱の嫡男と次男も亡くなります。

真田と武田にとって悪夢のような3年間。

その締めくくりに起きたのが【長篠の戦い】でした。

 


三男・昌幸が真田を継ぐ

信玄が亡くなり、武田勝頼が家督を相続した武田家。

真田一族にとっても重大な岐路となったのが、天正3年(1575年)の戦いでした。

ご存知【長篠の戦い】です。

織田信長による鉄砲三段撃ちはあったのか?

→無い

織田信長
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る

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なぜ勝頼は無謀な突撃を繰り返したのか?

→実際は無謀とも言い切れない

そのへんの詳細は以下の記事にお譲りしますとして、

長篠の戦い
長篠の戦いで信長の戦術眼が鬼当たり!勝因は鉄砲ではなく天然の要害だった?

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真田視点で注目せねばならないのが跡継ぎの真田信綱と、その次弟・真田昌輝が戦死してしまったことです。

当主とその候補が不在になった真田一族は、武藤氏を継いでいた三男・真田昌幸をその後釜に据えました。

真田信綱の男子が幼すぎたため、勝頼が昌幸を指名したのです。

真田喜平尉昌幸の【表裏比興の者】と呼ばれる波乱万丈の一生は、ここから始まります。

武田勝頼を支える昌幸の権限は、父と兄よりも重要なものでした。

領国一部の支配を司り、何代にもわたって仕えてきた宿老と同じ立場に並んだのです。

北上野を支配する、武田家の宿老として。

武田氏を支える知略に長けた家臣として。

武田氏滅亡後も、北上野を断固渡さぬ国衆として。

昌幸は生きていきます。

父の代から尽くし、幼い頃から間近で見てきた武田家。その滅亡が、いかほどショックであったか。

彼がどれほど、真田の土地と北上野、そして城を守りたいと願ってきたか。

「表裏比興の者」と罵られようが、調略に生きねばならなかったか。

それは父・真田幸綱の代から、受け継がれたものであり、真田にとって魂でもありました。誰に何を罵られようと、その覚悟に1ミリの迷いもなかったでしょう。

真田幸綱が取り戻し、真田昌幸がさらに発展させた真田一族。

リアルの戦場・最前線で培われたその知勇は、今後も多くの戦国ファンを胸アツにさせてくれるでしょう。


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文:小檜山青

【参考文献】
平山優『戦国大名と国衆』(→amazon
平山優『武田三代』(→amazon
平山優『真田信繁』(→amazon
黒田基樹『真田昌幸』(→amazon
黒田基樹『真田信之』(→amazon
大石泰史編『全国国衆ガイド』(→amazon
歴史群像編集部 (編集)『戦国時代人物事典』(→amazon

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