大河ドラマ『真田丸』で草刈正雄さんが演じた姿があまりにも印象的で、今なお全国で高い人気を誇る真田昌幸。
『どうする家康』では佐藤浩市さんが全くの別キャラを演じました。
一体どんな昌幸だったのか? というと……豊臣秀長の前で果物を食い散らかしたり、不適な面構えを浮かべたり、家康やその家臣たちを小馬鹿にするように煽ったり。
草刈昌幸と比べると、かなりの大物感を漂わせていたのです。
しかし、実際の昌幸はあのような態度を取れたのか?
武田家滅亡後の真田家は、上杉・北条・徳川などの大国に囲まれ、言葉巧みに歩き渡り、最終的に豊臣大名の一角となるまで一寸先は闇状態が続きました。
危うい綱渡りの連続であり、表面上は平静を取り繕っていても、内心は恐怖に怯えていたことでしょう。
そんな闇鍋状態の状況で、史実の真田昌幸はどのようにして豊臣政権へ喰い込んでいったのか?

真田昌幸/wikipediaより引用
本稿では、真田の苦悩と軌跡を振り返ってみたいと思います。
天正壬午の乱
真田家は、昌幸の父である真田幸綱(幸隆)の代から武田家の配下に加わった信濃の国衆です。
先祖代々武田に忠誠を誓っていたわけではありません。
ですので天正10年(1582年)に武田勝頼が自害に追い込まれると、真田家は再び従属先のない国衆に戻り、その後、昌幸は織田信長の配下になることを選びました。

織田信長/wikipediaより引用
大事件が起きたのは、その直後のことです。
【本能寺の変】で信長が斃れてしまい、信濃も再び混沌としてきます。
大河ドラマ『真田丸』では「なんで死んでしまうかのう、信長めぇ!」と昌幸に絶叫させることにより、内心の動揺を表現していました。
『これで近隣の旧武田領を取り放題だのぅ!』なんて余裕の考えは持てなかったでしょう。
その直後に、上杉・北条・徳川という大国がやってきて奪い合いを始めたからです。
いわゆる【天正壬午の乱】です。
【伊賀越え】という危難を乗り越えた徳川家康も武田旧臣と旧領を切り取り、信長配下で関東に進出していた滝川一益は、北条氏直との戦闘に敗北。
そうした間隙を縫うようにして、真田も吾妻領と沼田領を確保しました。
昌幸としてはホッと一安心というところでしょう。
沼田領問題の勃発
旧武田領をめぐる争い【天正壬午の乱】で、どうにか家を守ることに成功した真田家。
とはいえそれが刹那の安泰であることは昌幸も痛いほどわかっていたでしょう。
依然として真田は上杉・北条・徳川の大国に囲まれ、その均衡がいつまでも保たれるわけがなく、実際、昌幸は上杉、北条、そして徳川へ、コロコロと従属先を変えてゆきます。
『真田丸』では、この猫の目のようにクルクルと変わる真田が描かれました。
しかし『どうする家康』では北条がほんの少し登場するだけで、上杉はかすりもせず、それだけに真田の立場が非常にわかりにくくなっています。
なんなら昌幸は「唐突に出てきて徳川と喧嘩をしているだけの輩」のように見えるかもしれませんが、むろんそんな無法者なワケはなく、真田と徳川が衝突するには理由があります。
吾妻・沼田領です。
現代の地図ですと沼田市あたりの真田領が、北条へ譲られる、と、徳川が勝手に決めてしまったのです。
真田からすれば到底納得できるものではありません。
近所の大地主が、自宅の庭の一部を勝手に売り払うと決めたようなものといいましょうか。
沼田は、越後と上野をつなぐ要衝でもあり、ともかくそんなことは受け入れられない、もはや徳川には従ってられない。
昌幸は天正11年(1583年)、水面下で上杉景勝と接触しました。

上杉景勝/wikipediaより引用
交渉に当たったのは沼田城主・矢沢頼綱です。
そこで出された結論がなかなか不可解なことに、真田昌幸は上杉陣営に入らず、矢沢頼綱が上杉に属するというものでした。沼田だけは上杉に保証してもらうようなカタチですね。
その後、天正13年(1585年)になると、真田昌幸も上杉陣営に入りますが、そこにはしたたかな計算もあったでしょう。
上杉家は、新たな天下人へと上り詰めてゆく秀吉に近い。
徳川を見切って秀吉についたほうが旨味がありそうだ。
そんな生き残り策であり、後に徳川とのさらなる対立・因縁にも発展していくわけですが、『どうする家康』では上杉家を完全スルーのため、この辺の流れがさっぱりわかりません。
代わりに秀吉の弟である豊臣秀長が昌幸のもとへ来ていました。
秀長は豊臣政権に欠かせない重臣です。秀吉はそんな右腕である実弟を、わざわざ真田のもとへ派遣しなければならなかったのか。
他に人材は? あるいは書状ではダメだった?
色々と疑念は尽きませんが、そもそも上杉を登場させていないので、こうした無理のある展開となってしまったのでしょう。
徳川に従うと見せかけ 上杉と接触
徳川家康は困り果てました。
北条との約束である吾妻領・沼田領の引渡しがなかなか進まないと思っていたら、昌幸はぬけぬけと上杉景勝と接触していた。
もはや武力解決しかない!
かくして【第一次上田合戦】が起こると、あろうことか徳川軍は敵を捻り潰すどころか、自軍が手痛い損害を被ってしまいます。

徳川家康/wikipediaより引用
攻城戦とは防衛側が有利であり、攻めるほうが難しい。
とはいえ、大軍を擁していながら想定以上の打撃を喰らってしまったのです。
後詰めには上杉勢もいる。まるでスズメバチの巣のようなもので、倒そうにも損害が大きすぎる……。
『どうする家康』では、真田昌幸が子の信幸と信繁に「皆殺しにしろ」と口走っていましたが、攻城戦の防衛側は相手が撤退すればよいのであり、無駄な損害が出る殲滅戦は無駄でしかありません。
ですので、おそらくそんなことは口走らないと思うのですが……それはさておき、この戦いで真田と徳川の対立は決定的なものとなりました。
ならば次は秀吉へ接近すればよいではないか。
とばかりに、昌幸は秀吉との接触を狙ってゆきます。
『どうする家康』では秀長がノコノコと昌幸に会いに来ていますが、むしろ昌幸が努力して秀吉に接触を図っていたのですね。
表裏比興の者が豊臣大名へ
天正14年(1586年)に【天正大地震】が起きると、秀吉は家康と合戦以外での決着をはかります。
妹の旭姫(朝日姫)を家康の正室とし、さらには母・大政所まで人質として遣わし、ようやく家康の重い腰をあげさせることに成功するのです。

旭姫(朝日姫)/wikipediaより引用
そしてこの年、家康は再び上田城攻めを発して、駿府城に入ります。
これに対し秀吉は、増田長盛・石田三成連名の書状を上杉へ出しました。
真田に味方するなという内容であり、「表裏比興の者」とはこの書状にある言葉です。
一体どこが気に入らなかったのか?
昌幸は従うと言っておきながら人質も出さず、上洛もしない。そんな態度が秀吉にとっては舐め腐ったものとしてとらえられたのでしょう。
しかしここで上杉景勝が取りなしに入り、真田は窮地を脱します。
秀吉からすれば、いったん真田征討を認めることで徳川に理解を示す。
それをとりなす上杉景勝の言い分を認めることで、上杉の顔も立てる。
“人たらし”の名にふさわしい解決手段といえます。
昌幸が秀吉に謁見
天正15年(1587年)、真田昌幸は上洛して、秀吉に謁見。
国衆としてしぶとく乱世をわたり、めでたく豊臣大名となりました。
ただし、昌幸からすれば不本意な決定があります。
徳川家康の与力とされたのです。
名目的には一応大名のようで、実質的には徳川配下の国衆時代と変わらぬ配置といえます。
さまざまな対立もあった関係を和らげるためか、昌幸の嫡男・信幸は、家康の重臣である本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎えました。

小松姫/wikipediaより引用
正確な時期は特定できないものの、おおよそこのころと推察されます。
信幸には既に従姉妹(真田信綱の娘・清音院殿)の妻がいながら小松姫が正室とされたのです。
名胡桃城事件から小田原征伐へ
豊臣大名となった昌幸は、人質を求められました。
そこで二男の真田信繁(幸村)が秀吉の馬廻とされ、さらに信繁は大谷吉継の娘(竹林院)を正室に迎えます。

絵・富永商太
後に【犬伏の別れ】で東西に袂を分かつ真田家は、すでにこの時点でその種が撒かれていたとも言えるでしょう。
天正16年(1588年)には、家康の斡旋もあって北条氏も豊臣に臣従する準備が整えられていました。
秀吉としては、こじれていた沼田領の問題を解決し、さらなる外交手腕を示したいところ。
しかし天正17年(1589年)、肝心の沼田領割譲をめぐって、思わぬ事態が起こります。
北条側が沼田城に派遣した猪俣邦憲が、真田氏のものとされた名胡桃城を奪取してしまったのです。
昌幸はこのことを与親である家康に抗議し、家康は秀吉に取りなしを頼みます。
しかし、こじれにこじれ、ついには天正18年(1590年)の【小田原討伐】となり、北条氏は滅びてしまうのでした。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)
甘い実どころか苦い現実と対峙していた
その後、徳川家康は関東へ転封。
家康と距離があいた昌幸は、ぬかりなく石田三成との距離を縮めておりました。いちいち家康に頼らずとも、豊臣と交渉できるようになっていたのです。

石田三成/wikipediaより引用
かくして名実ともに堂々たる豊臣大名となった真田家。
【天正壬午の乱】をくぐりぬけ、ギリギリの戦術と外交を駆使し、国衆からここまで必死に上り詰めた、その道は決して平坦なものではありません。運に恵まれた一面もあったでしょう。
しかし『どうする家康』における真田昌幸は意外なことを語りました。
「秀吉、家康、北条、上杉、もめればもめるほど、甘い木の実が落ちてくる。乱世を泳ぐは、愉快なものよ」
まるで大国同士が戦うと美味しい思いができるとでも喜んでいるかのようなセリフ。
実際は、常に正解のわからぬギリギリの選択であり、吾妻領にせよ沼田領にせよ、本来真田氏が領有すると主張しているものですから、断じて「甘い木の実」ではありません。
むしろ信繁を人質に出すことになります。
信幸の正室は昌幸にとっては姪にあたり、兄の血を引く子を真田の後継者に望んでもおかしくはありませんが、そこに本多忠勝の娘である小松姫がねじこまれました。
「甘い木の実」どころか、常に苦い現実と対峙していたのが真田昌幸と言えるでしょう。
ニヤリとした大物感を出し、いかにもラスボスらしい昌幸は、ドラマの絵映え的には美味しいのかもしれません。
しかし、それでは史実の真田昌幸からかけ離れてしまうのではないでしょうか。
その苦境と対峙しているときこそ、真田昌幸が最も魅力的な瞬間でもあるはずです。
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【参考文献】
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon)
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon)
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
大石泰史『全国国衆ガイド』(→amazon)
他





