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【真田が豊臣大名になるまで】
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名胡桃城事件から小田原征伐へ
豊臣大名となった昌幸は、人質を求められました。
そこで二男の信繁が秀吉の馬廻とされ、さらに信繁は大谷吉継の娘(竹林院)を正室に迎えます。
後に【犬伏の別れ】で東西に袂を分かつ真田家は、すでにこの時点でその種が撒かれていたとも言えるでしょう。
天正16年(1588年)には、家康の斡旋もあって北条氏も豊臣に臣従する準備が整えられていました。
秀吉としては、こじれていた沼田領の問題を解決し、さらなる外交手腕を示したいところです。
しかし天正17年(1589年)、肝心の沼田領割譲をめぐって、思わぬ事態が起こります。
北条側が沼田城に派遣した猪俣邦憲が、真田氏のものとされた名胡桃城を奪取してしまったのです。
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昌幸はこのことを与親である家康に抗議し、家康は秀吉に取りなしを頼みます。
しかし、こじれにこじれ、ついには天正18年(1590年)の【小田原討伐】となり、北条氏は滅びてしまうのでした。
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甘い実どころか苦い現実と対峙していた
その後、徳川家康は関東へ転封。
家康と距離があいた昌幸は、ぬかりなく石田三成との距離を縮めておりました。いちいち家康に頼らずとも、豊臣と交渉できるようになっていたのです。
かくして名実ともに堂々たる豊臣大名となった真田家。
【天正壬午の乱】をくぐりぬけ、ギリギリの戦術と外交を駆使し、国衆からここまで必死に上り詰めた、その道は決して平坦なものではありません。運に恵まれた一面もあったでしょう。
しかし『どうする家康』における真田昌幸は意外なことを語ります。
「秀吉、家康、北条、上杉、もめればもめるほど、甘い木の実が落ちてくる。乱世を泳ぐは、愉快なものよ」
まるで大国同士が戦うと美味しい思いができるとでも喜んでいるかのようなセリフ。
実際は、常に正解のわからぬギリギリの選択であり、吾妻領にせよ沼田領にせよ、本来真田氏が領有すると主張しているものですから、断じて「甘い木の実」ではありません。
むしろ信繁を人質に出すことになります。
信幸の正室は昌幸にとっては姪にあたり、兄の血を引く子を真田の後継者に望んでもおかしくはありませんが、そこに本多忠勝の娘である小松姫がねじこまれました。
「甘い木の実」どころか、苦い現実と対峙していたのが真田昌幸と言えるでしょう。
ニヤリとした大物感を出し、いかにもラスボスらしい昌幸は、ドラマの視聴率や絵映え的には美味しいのかもしれません。
しかし、それでは史実の真田昌幸からかけ離れてしまうことは注意しておきたいものです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon)
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon)
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
大石泰史『全国国衆ガイド』(→amazon)
他