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【第二次上田合戦】
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千曲川の特性を組み込んだ天然の要害・上田城
ここで上田城の立地条件をおさらいしておきましょう。
上田の地には東山道が東西に通っていました。
上野国から山を越え上田に至り、松本を通過して、さらに山を越えて美濃、近江に出る道です。
また南北には善光寺方面へ向かう善光寺街道が通っていました。
江戸時代に中山道が整備されて上田より南を通過するようにはなりましたが、松本から上田に至る道は「保福寺街道」として、江戸時代の松本藩主の参勤交代の道として活用されています。
このように上田城の周辺は古代より街道の交差地点として、人の往来が盛んで国分寺も置かれていたほどです。
さらに……。
上田には千曲川の浅瀬を比較的安全に渡航できる「渡し」があったと云われています。
街道と街道が交わるクロスロードと「渡し」を支配すること――それは地域の物流や人の流れ、情報までをもコントロールできてしまうことを示します。
ゆえに影響力を及ぼしたい為政者ならば、必ず「要害を構えて侵されない」城郭化を施し、支配下に置くところ。
上田城は、こうして天然の要害となっていきます。
前回から15年以上が経過 城の防御体制は万全だ
昌幸は、人や物の往来を完全にコントロールするため、千曲川の渡しも城の外郭に取り込みました。
昔は、流れの激しい千曲川に橋を架ける技術はなく、そもそも「敵の進軍も容易にしてしまう」恒久的な橋を架けることはありえません。
往来者は僅かな浅瀬を舟で渡河していたのです。
かように上田城は、天然の要害・河岸段丘と、街道&渡河ポイントを押さえた、川沿いの城としては「定石通り」に建てられていました。
しかも、です。
【第二次上田合戦】頃の上田城は、すでに築城から15年以上が経過し、城だけでなく市街地もかなり整備されておりました。
【第一次上田合戦】では、作戦とはいえ本丸まで侵入を許した東側の高台に三の丸を設け、さらにその外側にも市街地を広げて城郭の縦深を保ちます。
上田城は、地形上どうしても城郭より東側の標高が高くなります。
この高低差の弱点を解消するため、本丸までの縦深を広げる必要があった。それが三の丸の拡張と、東に伸びる市街地です。
また沼と沼をつなげる水路を掘り、敵が一直線に城へ殺到できないような町割りを施します。
街の外側には、戦時においては砦として使える寺も集めておきました。
現在の上田でも、お寺は城の東側から北側に多いのですが、これは鬼門に寺社を集めたというよりも城の弱点を補う外郭の防衛拠点として集められたのでしょう。
砥石城を攻める兄・信幸 守るは弟・信繁だったが
西軍に与した真田家に対し、徳川方は降伏勧告を出しながら小諸城に本陣を構えました。
第一次上田合戦同様、南東から上田城にプレッシャーをかける作戦で、兵力は以前の約10倍。
通常の攻城戦としては、攻め手に十分な余力のある戦力バランスです。
そこで真田昌幸は、しおらしく降伏勧告に応じる構えを見せ、3日経ってから「ワシ、実は戦の準備をしてましたわ! あっひゃー!」と挑発します。
キレた徳川方も総攻撃に移りますが、さすがに彼等も【第一次】で惨敗した反省を活かしました。
前回の戦いでは、上田城の本丸まで迫りながら伏兵の横槍に撃退され、潰走中も「砥石城」から出た真田信幸の別働隊に追撃されて、多数の兵士が討ち取られています。
そこで今回は、要害堅固で名高い「砥石城」を最初に攻め、占拠しておいたのです。
しかも実行したのは兄の真田信幸。
砥石城の守将は弟・真田信繁でした。
なぜ真田信之は昌幸や幸村とは別の道を歩んだか 過酷な戦国を生き抜く才覚とは?
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東軍で居心地の悪い兄・信幸に戦功を上げさせるため、弟・信繁はスグに退いた――ドラマなら涙腺崩壊の場面ですが、戦国はリアリズムの世界です。
やはり兵力差が10倍ともなると、守備側が兵を二手に割るのは得策ではなく、上田城に集中させるのが定石です。
ゆえに、徳川方が先に砥石城の攻撃に出た時点で、信繁が砥石城を放棄するのは既定路線だったと考えます。
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