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【第二次上田合戦】
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百戦錬磨の徳川でもワナにはまってしまう
昌幸の必勝戦術は【戦略要地】を明け渡し、油断した敵を誘い込むことです。
「第一次」では上田の第一防衛ラインである神川を放棄して敵を油断させましたが、今回は砥石城を放棄して相手を油断させました。
今回も、城に殺到した徳川方を本丸のキワまで簡単にたどり着かせ、油断しきったところで至近距離から鉄砲を一斉射撃。
遊撃部隊として真田信繁の部隊が徳川方の側背を突き、徳川の大軍勢はまたしても大混乱に陥ったのです。
徳川方の受難はまだまだ続きます。
遊撃部隊の真田信繁によって夜討ちなどの奇襲に散々悩まされ、最終的には敗走するのです。
しかも、神川の上流に施していたダムを決壊させられ、溺死者多数という有り様となり、小諸城までほうほうの体で撤退することになりました。
地形を熟知した真田方の突撃と奇襲
第二次上田合戦の勝因も、結果的に第一次と似たようなものでした。
徳川方が油断したところに、地形を熟知した真田方の突撃と奇襲。
やはり、なだらかな坂道を下りながらの攻撃は、どれだけ慎重な軍でも勢いがついてしまい、油断が生じてしまうのでしょう。
当初は、小競り合いする程度の構えだったのが、「勝てる!」と鼻息荒くなった途端、集団心理が働いてテンションが上がってしまい、結局ワナにはめられてしまう――そうして大損害を被ってしまったのです。
徳川がバカなのではありません。
彼等はそれまで最強の武田家などもやりあってきた百戦錬磨の軍団です。
それでも誘われてしまうのですから、上田の台地は、よほど心理的に油断を誘う地形だと思わずには入られません。
昌幸が、その点と合戦の妙を熟知しており、確実に勝利に導いたのです。
染谷台と呼ばれる上田の台地に本陣を構えた徳川秀忠。
遊撃部隊の真田信繁が奇襲を成功させましたが、これもおそらく川筋の谷を進んだと思われます。
この場所は、砥石城から簡単に見えてしまうので、信繁は夜陰に乗じて進んだのか、あるいは信幸さえも知らない道があったのかもしれません。
上田城は、徳川方に対して坂下という不利な地形を強みにするため、城の構えを東に広く取り、城下町や寺院も含めて防衛拠点となりました。
ここに相手を油断させる真田昌幸の策を数多仕込むことにより、上田城を攻撃する敵は神川を越えてしまい、下り坂で勢いがついて気が緩み――その時点でもう死んだも同然だったのです。
以上が真田昌幸・信繁による【第二次上田合戦】です。
惜しむらくは関ヶ原の本戦で西軍の石田三成が敗れてしまい、真田信繁がその後、大坂夏の陣で散るまで隠居生活を余儀なくされたことでしょうか。
どのみち、これを機に戦が激減していくのですが……多くの人にとっては喜ぶべきことだったでしょう。
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筆者:R.Fujise(お城野郎)
◆同著者その他の記事は→【お城野郎!】
日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。