島津歳久

絵・小久ヒロ

島津家

秀吉に矢を放った島津歳久(四兄弟三男)非業の最期を迎えて安産の神となる

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「島津のため腹を切ってくれ」

秀吉の軍門に下った後の島津家は苦難の道を歩まされました。

その中でも輪をかけて冷遇された歳久は天正20年(1592年)の朝鮮出兵も病を理由に出陣しないでいると、ついに事件が勃発してしまいます。

同年(1592年)のことでした。

朝鮮に向かう船内で島津氏家臣の梅北国兼が戦場を離脱すると、賛同者を集めて城主不在の佐敷城を占領、周辺の民を巻き込んだ大規模な一揆を目論んだのです。

計画はかなり杜撰だったのでしょう。すぐさま鎮圧されると、国兼や首謀者はわずか3日で全滅しています。

しかし歳久にとっては一大事でありました。

一揆の知らせを受けた秀吉が、義久に対してこう命じたのです。

「歳久が朝鮮出兵に参加していれば首謀者の首を刎ねるだけでよい。しかし、歳久が万が一薩摩にとどまっているならばその首を刎ねよ」

前述のように不幸にも病気療養中だった歳久は薩摩に残っていました。

一揆の責任を歳久に押し付けるのはまるで道理は通っていない理不尽な要求でしたが、かといって島津義久にそれを強固に拒否する選択肢はありません。

鹿児島の地から召喚された歳久は、兄・義久に告げられます。

「島津のため、どうか自分で腹を切って後世に名を残してはくれまいか」

この自害勧告に対し、憤ったのは歳久本人ではなくその家臣たちでした。薩摩にいるだけで一揆を先導したという秀吉の言い分は明らかに横暴であり、家臣たちが憤慨するのも無理はありません。

実際、歳久は書状にこうしたためています。

「家のために自害すると家臣たちに伝えたところ、彼らが納得しないのもわかる。兄であり当主である義久公に弓を引くわけにはいかないが、最後は武士らしく散ろう」

かくしてわずかな忠臣を率いた歳久は、義久が仕向けた追っ手と戦うことにしたのです。

しかし、義久の追っ手たちも、辛いものがあります。

ターゲットは主君の弟であり、しかも本来は罪なき人物。彼らもまた悲嘆に暮れながら戦いを繰り広げていたと記録されています。

最終的に追い詰められた歳久が自害を試みると、不幸にも病気のため身体の自由がききません。

そこで追っ手に自身を殺害するよう迫りますが、主君の弟殺しの汚名を請け負える人物もなかなか現れません。

といってもそれでは埒が明かず、最終的には原田甚次という人物が介錯をすると、歳久の首を見た家臣らは突っ伏して号泣したという逸話が残されています。

情深い薩摩隼人たちの悲嘆が伝わってきますね。

こうして「弟殺し」の汚名を背負い、家を守った義久ですが、当然ながら本意ではなかったようです。

歳久の死後、義久は僧侶に対し

「兄弟の別れは耐え難いものであった。表向きは平然としているが、内では悲嘆に暮れている。」

と語り、その哀悼を句で示しています。

住みなれし 跡の軒端を たづねきて しづくならねど 濡るる袖かな

【意訳】住み慣れた軒口を訪れてみると、雨でもないのに袖が濡れることだ

 

家臣に愛されたように死後も尊敬を集める

かくして悲劇的な最期を迎えた島津歳久。

江戸時代には、その生き様が評価され、薩摩では信仰の対象になりました。

秀吉の死後、歳久最後の地に心岳寺という寺社が建てられ、同寺を詣でる藩士が数多く存在したと記録されているのです。

また歳久は【安産の神】としても信仰されました。

【戦の神】ならまだわかるけどなぜ?

というと、病のため刀による自害が難しかった歳久が、傍らの岩で割腹しようとした際、

「これは女のお産と同じ苦しみだ。死後はそういった苦しみを救ってやろう」

というように語ったとする伝承があり、そこから安産の神へと発展したのですね。

心岳寺が、明治維新後の廃仏毀釈によって失われ、その後建立された平松神社でも「戦の神」と「安産の神」として歳久ならびに忠臣27名が祀られています。

さらに生前の領地だった祁答院領(鹿児島県さつま町)では「金吾様」として歳久を祀る神社が町内に数多く点在するほか、大石神社においては毎年9月中旬の例大祭で「金吾様踊り」が奉納されるなど、その信仰は時代を超えて引き継がれているのです。

秀吉に反抗し、そして非業の死を迎えてしまった歳久。

地元では、記録よりも記憶に残る武将(神)として、今なお尊敬を集めています。

そこで気になるのが、なぜ全国規模では評価が低いのか?ということ。

薩摩や大隅の平定で活躍した歳久が、急にその名を萎ませていった経緯は明らかに不自然です。

その点を最後に考察してみたいと思います。

 

なぜ、歳久の史料や記録が少なく評価も芳しくないのか

歳久の活躍を振り返っていると、その記録が抹消あるいは改ざんされている可能性を感じます。

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彼ら三兄弟の功績が高く評価されているのに対し、島津歳久の名はなかなか地味。

しかし、その活躍を意図的に消されたのであれば合点がいくものであり、実際、島津氏は、江戸時代の修史事業において不都合な事実を隠蔽している形跡が確認できます。

ではなぜ歳久はそうされてしまったのか?

・江戸時代以前の豊臣政権時代から顔色を窺っていたため(これ以上難癖をつけられたくなかった)

・「弟殺し」という不名誉を広めたくなかった(歳久の名声が上がれば上がるほど最期が注目されてしまう)

むろん後年の歳久が病に侵され、戦に従軍出来ていなかったことが記録を少なくしている影響もあるでしょう。

それでも【剥き出しの反骨心】を大々的に喧伝するのは、江戸時代では躊躇われるため、やはり歳久には不利に働いた気がしてなりません。

秀吉と敵対したことで全国的には名を萎縮させながら、その反面、地元では絶大な支持を得た生涯。

熱狂的な島津歳久ファンがいることも納得できます。

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文:とーじん

【参考文献】
『薩摩島津氏』(→amazon
『中世島津氏研究の最前線 (歴史新書y)』(→amazon
『さつま人国誌』(→amazon
『島津四兄弟―義久、義弘、歳久、家久の戦い―』(→amazon
『なぜ、地形と地理がわかると戦国時代がこんなに面白くなるのか (歴史新書)』(→amazon
戦国大名勢力変遷地図』(→amazon

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