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【島津歳久】
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薩摩・大隅・日向の三州統一
薩摩を平定した島津氏は、これまでも介入してきた大隅国への侵略を本格化させます。
歳久は有力国衆・伊地知氏(いじちし)の攻略を命じられました。
そこで元亀3年(1572年)、まずは伊地知重矩(しげのり)の守る小浜城を攻略。
さらには当主・伊地知重興(しげおき)の盟友だった禰屋重長(ねやしげなが)が島津の軍門に下り、追い込まれた伊地知氏を降伏させます。
同じく白旗を挙げた肝付氏(きもつけし)と伊地知氏は、以降、島津家臣として活躍を重ねていきます。
歳久の主導により大隅を平定した島津氏は、同時期に伊東氏が支配していた日向国も手中に収め、薩摩・大隅・日向の三州統一という悲願を果たしました。
マンガ風に言えば大友氏・龍造寺氏・島津氏による九州三国志の成立ですね。
と言っても、この三氏は戦国初期から絶大な勢力を誇っていたワケではなく、時期によって勢力の大きさもまちまちです。
ざっと変遷を記しておきますと……。
◆天文17年(1548年)
大友義鑑(豊後)
島津貴久(薩摩)
◆元亀2年(1571年)
大友宗麟(豊後・豊前・筑前・肥後・日向)
龍造寺隆信(肥前)
島津義久(薩摩・大隅)
※日向は1572年に島津へ
◆天正10年(1582年)
大友宗麟(豊後・豊前)
龍造寺隆信(筑前・筑後・肥後・豊前)
島津義久(薩摩・大隅・日向・肥後)
※龍造寺隆信は天正12年(1584年)に島津氏との合戦【沖田畷の戦い】で戦死
◆天正13年(1585年)
大友宗麟(豊後・豊前)
島津義久(薩摩・大隅・日向・肥後・筑前・筑後・肥前)
【参考】
『なぜ、地形と地理がわかると戦国時代がこんなに面白くなるのか (歴史新書)』(→amazon)
『戦国大名勢力変遷地図』(→amazon)
戦国初期は薩摩一国だった島津が確実に拡大していく様が見えますよね。
京都では信長との関係構築も
薩摩・大隅・日向の統一後、歳久はしばらく合戦に従軍していません。
天正3年(1575年)には弟・島津家久の上洛を後追いするカタチで京都へ。
名目上は「歌の伝授」で、実際は都(京都)の情報収集や織田信長との関係づくりに腐心していたようです。
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ただし、家久側の記録によると、本当に文化人と面会しつつ物見遊山していた形跡も残されており、仕事遊び半々といったところでしょうか。
いずれにせよ歳久の名は史料から消え、次に注目されるのは5年後の天正8年(1580年)。
以前平定した祁答院氏の領地を与えられると、かつて祁答院渋谷氏という一族が所有していた虎居城へ入り、以後、この地域を領有していきます。
その翌年には相良氏の水俣城攻めに出陣し、以後の肥後攻めにはたびたび参加しています。
最終的に薩摩氏は同年中に相良氏を下して肥後を領有すると、勢いのまま龍造寺を打倒して九州統一が現実に見えてくる規模となっていました。
病名は「風疾」痛風かリウマチか
残る敵は豊後の大友氏です。
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中央ではすでに【本能寺の変】が起き、明智光秀らとの戦いに勝利した豊臣秀吉が勢力を急拡大させている。
四国を制覇し、毛利市も従え、九州の直前までその手は迫ってきておりました。
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それでも島津氏は大友氏への進行を止めず、天正14年(1587年)に攻撃を開始。
歳久も従軍していたようですが、間もなく手足がしびれる病気を発症してしまったようで、翌年には病を理由に帰国しています。
病名は「風疾」と記されており、おそらく「中風・痛風・リウマチ」だったのでしょう。
彼は大酒飲だったという言い伝えもあり、食生活の乱れが原因で病を発症してしまったのかもしれません。
それが歳久にとっては不幸な分岐点になってしまいました。
天正15年に豊臣秀吉の九州征伐軍がやってきたのです。
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病だった歳久はその戦いに参加することができず、名代として跡継ぎの島津忠隣を出陣させました。
するとこの忠隣が合戦で討死。
本来は秀吉との和睦に前向きだった歳久は、急激に反秀吉のスタンスを取り始めます。
忠隣の死があまりにショックだったのでしょう。
自軍の数倍もある豊臣軍に対し、無謀にも徹底抗戦を主張するばかりか、和睦を結ぶため薩摩を訪れた秀吉を狙い、部下に矢を放たせたのです。
敵意を微塵も隠そうとしないその姿勢に対し、秀吉も冷淡でした。
かくして歳久は悲劇的な最期を迎えることになるのです。
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