島津貴久

島津貴久/wikipediaより引用

島津家

島津四兄弟の父・島津貴久ってどんな人?大隅を支配した中興の祖

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
島津貴久
をクリックお願いします。

 

信長が家督を継いだ翌年に……

こうして貴久が名目的にも物理的にも薩摩の主となったのは、38歳のときのこと。

長く苦しい戦いでした。

年でいえば天文二十一年(1552年)。

織田信長が家督を継いだ翌年であり、大友宗麟が中国の大内家に養子を送り込んだばかりで、南に目が向いていなかった頃ですね。

織田信長
史実の織田信長ってどんな人?生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ

続きを見る

信長の父・織田信秀と貴久がだいたい同世代ですから、息子たち四兄弟と信長も当然ながら同世代。

本能寺の変が起きていなかったら、九州征伐をしたのは豊臣秀吉ではなく、信長の陣頭指揮となる可能性が高そうなので、

【信長vs四兄弟】

という胸アツな展開になったかもしれません。

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は

続きを見る

豊臣秀吉
豊臣秀吉 数々の伝説はドコまで本当か? 62年の生涯まとめ【年表付き】

続きを見る

それに、もしこれ以上薩摩統一が遅れていたら、島津家が勢力を保つことはできなかったかもしれません。

実に絶妙なタイミングです。

 

戦国大名として初めて実戦に鉄砲を投入した

その後、貴久は大隅(現・鹿児島県東部)の西部を攻略し、島津家の掌握と領地の拡大に成功しました。

ちなみに貴久は、大隅攻略の過程で、戦国大名として初めて鉄砲を実戦で使ったといわれています。

種子島から近い分、研究や生産も早くできたのですね。

鉄砲伝来
戦国時代を変えた鉄砲伝来!種子島に漂着した中国船のポルトガル人から

続きを見る

貴久の最終目標は、大隅全土及び日向(現・宮崎県)を手中に収めることで、それは彼の息子である島津義久たち四兄弟によって進められていきます。

四兄弟の時代から見ると、忠良と貴久は二人で義久たちの地盤作りをしたことになるため、二人とも「中興の祖」といわれていますね。

父に倣ってか、貴久も寿命が尽きる前に出家し、長男の義久に家督を譲りました。

義久の初陣は大隅攻略の後半ですので、たぶん前々から計画を立てていたんでしょう。

この流れからすると、島津家だけで大長編ドラマができそうな気がします。「葵徳川三代」みたいに代々記っぽく進んでいく感じで。

特に島津家の場合、次の世代へのバトンタッチが見事ですから、うまく繋げていけそうです。

島津四兄弟(特に義弘)が大河にならないのは、「朝鮮出兵でのアレコレが問題になるおそれがある」という説が根強いと感じますが、忠良や貴久の代からやれば、朝鮮出兵のあたりはかっ飛ばせませんかね。

そんな感じでいかがでしょう。

あわせて読みたい関連記事

島津義久
戦国九州の統一に迫る島津義久(四兄弟の長男)戦い続けた生涯79年とは

続きを見る

島津義弘
島津義弘(四兄弟の次男)が鬼島津と呼ばれる功績が凄い 85年の生涯まとめ

続きを見る

島津歳久
秀吉に矢を放った島津歳久(四兄弟三男)非業の最期を迎えて安産の神となる

続きを見る

島津家久
島津家久は四兄弟最強! 次々に大軍を撃ち破った軍神41年の戦歴凄まじ

続きを見る

新納忠元
戦国島津名将伝・新納忠元は薩摩一有能で猛将で泣かせる忠臣だった

続きを見る

島津の退き口
関ヶ原で負けて逆に敵陣へ突撃! 島津の退き口はなぜ成功できたか?

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
島津貴久/Wikipedia

TOPページへ

 



-島津家
-