一国一城令

なぜ一国一城令が出されたのか? 実際は一国に一城ではなかった?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
一国一城令
をクリックお願いします。

 

その懐柔策の一つが、一国一城の例外扱いであり、

「出羽半国を佐竹だけで治めるには、城が一つじゃやりにくいよね。まだ転封してきたばっかりだし、城を三つ持っていいからシッカリね^^」

と認めることでした。

こうして、佐竹氏は久保田城・大館城・横手城の三城を持っています。

 

萩藩・毛利氏は自ら城を減らしていた

逆に、複数の国を治めていても、一つしか城を持たない藩もありました。

前述の萩藩・毛利氏です。

萩藩は周防・長門の二ヶ国を持っていたので、一国に一つずつ城を構えていても問題はありませんでした。

しかし、毛利氏は自ら長門の萩城だけを残し、他の城を破却して幕府に報告しているのです。

萩城

それに対する幕府の返事は

「別に一国に一つずつ城を持ってても良かったのに(´・ω・`)」(※イメージです)

という、つれないものでした。

理由は、

・毛利氏内での統制のため

・幕府への遠慮が先走ったため

など複数の説があります。たぶん両方ですかね。

毛利氏は関ヶ原の際、西軍の総大将にされていたという経緯がありますので、生き残るために少々過敏になっていたようにも見えます。

 

仙台藩と熊本藩でも変わった例外が

他の例外として、大名家ではなくその家臣が城を持つことを許されたケースもありました。

一つは仙台藩の白石城です。

初代藩主・伊達政宗の右腕、片倉景綱とその子孫が代々受け継いだ城。

江戸との近さもあって、家康は南東北の諸大名にはかなり警戒しています。

伊達政宗
伊達政宗の派手な逸話はどこまで本当か?史実の生涯70年を検証まとめ

続きを見る

片倉小十郎景綱
政宗の参謀・片倉小十郎景綱は冷徹苛烈な武将?59年の生涯まとめ

続きを見る

伊達家はその中でも江戸に近く、また政宗の動向が油断ならないと判断されたのか、政宗と景綱を離間させる目的で白石城の存続を許したと思われます。

白石城

もう一つは、熊本藩の八代城です。

細川氏の家臣・松井氏が治めていました。

戦国時代に細川氏の家老を務めていた松井康之が、関ヶ原の戦いの際に機転を利かせて主家を守り、家康からの覚えがめでたくなったことで、名目上は徳川氏の直臣扱いになったのです。

そのため主家とは別に城を持つことが許されたのでした。

最初は麦島城という別の城にいて、元和五年(1619年)の地震で倒壊、八代城へと移っています。

八代城大天守台跡と小天守台跡

仙台藩の白石城は東北の押さえとして。

熊本藩の八代城は島津氏対策として。

そんな立ち位置だったと考えられます。

一国一城令は特に、戦国時代までの事情や、その土地・大名家固有の経緯がうかがえて、深掘りするのが面白い項目。

好きな大名家があるという方は、調べてみるのも一興ですね。

あわせて読みたい関連記事

小牧山城
信長が初めて築いた小牧山城が織田家の戦略を一変!狙いは犬山城

続きを見る

虎口
玄関開けたら2分で殲滅「虎口(こぐち)と門」は城防衛の最重要拠点

続きを見る

山城・平山城・平城の違いとは?築城された時代ではなく地形に左右されます

続きを見る

天守(望楼型と層塔型)
城の天守はいつから作られた?城主のこだわり反映する望楼型と層塔型

続きを見る

宇土城
GWは「敗者たちの城」へ!『戦国廃城紀行』を片手に負けの美学を堪能しよう

続きを見る

豊臣秀吉
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か?62年の生涯まとめ

続きを見る

前田利家
前田利家~槍の又左62年の生涯~信長に追放されてもド派手に復活!

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
一国一城令/wikipedia

TOPページへ

 



-

×