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指月伏見城
当時、築城された最初の伏見城を第1期として「指月伏見城(しげつふしみじょう)」と呼びます。
なぜ1期としたかと申しますと、伏見城はその後2度、築城されるからです。
秀吉の第1期築城時には、人夫25万人が駆り出され、約7ヶ月で完成。
このとき茶々が第一子(鶴松)を生んだ淀城(この城の名から茶々は「淀君」と呼ばれる)は廃城にされ、天守や櫓、門が伏見城に移築されました。
大坂城で生まれたお拾も、12月には「指月伏見城」に入城し、この後、秀吉が死ぬまで同城で共に過ごします。
また、指月伏見城の築城と同時に、この付近の地形を永遠に変えてしまう大土木工事も始まりました。
当時この付近には巨大な巨椋池(おぐらいけ)が存在し、宇治川が上流の琵琶湖と結び、巨椋池から下流は淀川が流れて、大坂そして瀬戸内海を結んでいます。
秀吉はこの巨椋池に手を加えて、指月伏見城を戦略要地にするのです。
まず初めに「槙島堤(まきしまつつみ)」を築き、宇治川の流れを小椋池から切り離して、指月伏見城の水堀になるように城の外郭まで流路を引っ張り、さらには港も造りました。
これにより琵琶湖からやってきた船は必ず伏見城下を通過しなければならなくなります。
京都へ運び入れる物資も伏見城下の港で荷下ろしをしなければならないので、伏見城一つで水運をコントロールすることが可能になります。
秀吉は、さらに巨椋池に浮かぶ島や浅瀬を埋め立て、それらをつなぎ合わせて「小倉堤」を築きます。
この付近には大和国(奈良県)と京都を結ぶ「大和街道」が通っていました。
南の大和国から京都方面に向かう大和街道は、巨椋池にぶつかると、一旦、東に折れて宇治平等院などがある方面から宇治川に架かる橋を渡り、小椋池を北へ回り込むように伏見へ向かい、京都に至ります。
しかし「槙島堤」と「小倉堤」、いわゆる「太閤堤」ができたことで堤上を歩けるようになり、巨椋池を避けることなく南から一直線に北へ進み、指月伏見城の正面で宇治川に架かる橋(豊後橋)を渡るルートに変更されました。
大和街道が短縮されて利便性が増しただけでなく、陸地を通るすべての人や物の流れを指月伏見城下でコントロールすることを可能にします。
巨大な巨椋池で京都へ向かう水陸交通を一手にコントロールする――そんな役割を持つ指月伏見城となったのです。
こうなると、単なる隠居所ではありません。
京都と琵琶湖-大坂間の交通を支配する最前線の城と呼べるレベルの築城と新都市開発なんですな。
ちなみに宇治川を挟んだ伏見城の対岸にも「向島城」という、その名もズバリな城が同時に築城されます。
川の両岸に築城して宇治川を通る船や大和街道を行き交う者に威圧をかけることができる――誰もが一度は夢想するも、両岸に築城するお金の余裕がないので誰もやらない城郭戦略です。
豊臣秀頼の誕生により、秀吉が半ば隠居を撤回して本気で築城したのが、この「指月伏見城」だったのです。
城の威容にダメージを受けたのは秀次
指月伏見城の存在は政治的デメリットもありました。
豊臣政権の政治を一層ややこしくして、関白・豊臣秀次のメンタルを崩壊に追い込んだのです。
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これまで天下の政治については「聚楽第」の秀次で事が済みましたが、お拾の誕生にやる気を出した「指月伏見城」の秀吉にもお伺いを立てねばならない。
また「豊臣家のことは大坂城で」と言われても、肝心のお拾はまだ幼児でお話になりません。
結局、相手は秀吉となり、伏見城に出向く必要が出てきたのです。
なにしろ秀吉自らが命じた唐入りも未だ道半ば。秀吉がノンキな隠居生活というわけにいかないのは一目瞭然です。
そこで指月伏見城が権力の中枢となり、諸大名も続々と伏見城下に屋敷を立てることになります。
秀次事件が起きたのは、まさしくその最中、1595年のことでした。
記録が断片的にしか残っておらず詳細は不明ですが、秀次は高野山で出家を命じられた後に切腹。
その後、一族郎等が処刑されるという、秀吉の闇を感じさせる事件でした。
京都洛中の豪華絢爛な聚楽第は、もともと何もなかったようにすべて破壊され、埋めてしまうよう命じられ……秀吉の闇により聚楽第は現代の城マニアにとっても永遠に幻となってしまったのです。
ともかく豊臣政権の城は、これで「聚楽第」から「伏見城」へと移りました。
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