伏見城

徳川時代の伏見城/wikipediaより引用

豊臣兄弟

伏見城は豊臣にも徳川にも重要拠点~秀吉は晩年を過ごし家康は将軍宣下を受ける

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木幡山伏見城

秀次自害の翌1596年、慶長伏見の巨大地震が起こります。

謹慎中の清正が地震直後に誰よりも早く駆けつけた――という逸話は皆さんご存知のところでしょうか。

マグニチュード7超と推定されるこの大地震により、指月伏見城は倒壊し、秀吉一家は避難を余儀なくされました。

秀吉は、伏見の地に再度、築城を命じます。

今度は指月から少し北東に行った木幡山(こわたやま)へ。これを「木幡山伏見城」と呼びます。

秀吉はこの木幡山伏見城を地震から約1年弱で再建。

不幸中の幸いで、地震後に火災は起こらなかったので、指月伏見城の資材を転用することができました。

また聚楽第も取り壊し中でしたので、大量の資材がリサイクル可能であり、とにかくスケジュールが早かった伏見城再建の裏には秀次事件があったんですな。

木幡山は小高い山です。

指月に隠居所を定め、そして指月に隠居所を建てる段階から、辺り一帯を見渡せるこの木幡山の存在は懸念事項だったようです。

木幡山伏見城の築城があまりにも早かった理由の一つに、もともと指月伏見城を築城する際に、木幡山にも既に出丸が築かれて整備されていたという説もあります。

しかし軍事的観点でもって高地に城を築くのは、京都周辺の畿内では既に数々の戦で否定され、もはや時代遅れになっていました。

応仁の乱以後、京都防衛のために、京都を取り巻く山中に「中尾城」や「将軍山城」などが築かれましたが、すべて防衛失敗に終わっているのです。

たとえば京都を支配下に置いた織田信長は、京都に通じる峠に「宇佐山城」を築きましたが、救援に遅れて城主の「森可成」を討死させてしまいました(浅井・朝倉の挙兵が突然だったこともありましょうが……)。

 

軍事的拠点としても重要に

一方、平地に築いた城は実践でも十分に機能しております。

それが坂本城です。

信長が比叡山を焼き討ちにして、高所の脅威を取り除いた後に定めた京都防衛の要。

明智光秀の居城として有名な琵琶湖畔の拠点で、周囲には港やそれに付随する商業地、そして比叡山を経由して今日に至る街道を支配できる要衝でした。

坂本城は、仮に陸地を包囲されても、琵琶湖の水運を利用した後詰めが可能という、完璧な防御のハーモニーだったのです。

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このように人や物の流れを支配し、一点でコントロールするには、港や街道筋など物流の拠点付近に「城下町ごと」押さえるのが重要。

逆に、それさえ押さえてしまえば、敵対勢力が木幡山に登る前に容易に察知・撃退できますし、包囲されても水上からの後詰めが期待できます。

宇治川の流れを城の外郭まで引っ張り、木幡山方面に回り込んでいた大和街道を、指月伏見城の正面を通過するように道を差し替えた最大の理由はここにあるでしょう。

秀吉は一見不利と思われる地形であっても、大規模に道路や河川の流路を改めることで、人工的に「要衝」を作り出すことを可能にしました。まさに戦国のデペロッパーですね。

そう考えると指月伏見城の位置は軍事的にも決して間違ってはいないのです。

と、秀吉の指月伏見城を擁護してみましたが、最初の伏見城が木幡山ではなく、なぜ指月だったのかという真相は正直よく分かっていません。

しかも今回、木幡山に伏見城を移転する理由も全く軍事的な観点からではなく、余震が続く中で、高台の方が地震の時に安心という観点からの移転でした。

大砲が本格的に実践運用されていない秀吉の時代(大砲の本格運用は朝鮮出兵後)には、指月より高台の木幡山の方が軍事的に優れている理由はどこにもないのです。

結局、木幡山伏見城は秀吉の最期の城となります。

秀吉はこの城で死に、秀頼は大坂城に戻るのでした。

その後、伏見城には五大老の一人・徳川家康が入城し、豊臣政権の城として機能します。

しかし関ヶ原の戦いの前哨戦で、西軍の猛攻により、木幡山伏見城は落城。

会津の上杉征伐に向かった家康の城代として入城していた鳥居元忠は壮絶な死を遂げます。

どんなに立派な巨大城郭であっても後詰がなく孤立状態では勝てないのです。

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家康に続き秀忠・家光が征夷大将軍に

関ヶ原の戦い以後、豊臣政権を完全に牛耳った徳川家康は、徐々に武家政権、そして徳川政権へと移行させます。

その舞台として必要だったのが、伏見城でした。

西軍の猛攻で落城した木幡山伏見城を家康が再建。

現在、縄張りがハッキリ分かっているのはこの第3期の伏見城です。

その後、家康はこの木幡山伏見城で征夷大将軍になります。

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徳川秀忠徳川家光も、この例にならって木幡山伏見城で将軍の宣下を受けますが、政治の舞台は再建された「二条城」に徐々に移され、伏見城は廃城となりました。

伏見城は単なる「戦の城」ではなく「政治の場」として、そして豊臣政権から徳川政権へ移る際にも重要な意味を持つ城だったのです。

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筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。

現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。

特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

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