箕輪城

武田・上杉家 れきしクン

長野業正【信玄を6度も退けた男】上州の黄斑と呼ばれた名将の生き様

こんにちは!
“れきしクン”こと、長谷川ヨシテルでございます。

一般的にはマイナーだけども、ご当地ではメジャーな戦国武将たちを取り上げていく当連載。

第6回目となる今回、ピックアップさせていただくのは、群馬県高崎市からエントリーの「長野業正」さんです!

戦国好きからすると「マイナーか?」という印象かもしれませんが、世間にはほとんど知られていない人物ではないでしょうか。

まずは、当連載でおなじみ『信長の野望 革新』の武将データから能力値をご紹介。

統率89
武勇78
知略86
政治60

強ぇぇぇぇ! はい、強いんです!
そして、紹介文は次のような感じ。

山内上杉家臣。主家滅亡後も居城・箕輪城を守り、武田信玄の侵攻を6度に渡って撃退した。「業正がいる限り、上州に手は出せぬ」と信玄を嘆かせた智将。

かっちょえぇぇぇぇ!はい、かっちょいいんです!
特に「武田信玄云々」の件、戦国好きとしては堪らん一文になっています。

信長の野望革新/amazonより引用

ちなみに、長野業正さんの家臣には“剣聖”と称された「上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)」がいました。

その武勇、なんと115!
長野業正さんと部隊を組んで戦えば、そりゃまぁ強かったわけで、50歳前後からの活躍が目覚ましかったことから、ゲーム好きには“スーパー爺(ちゃん)”などとも呼ばれています。なんかカワイイ!

また、江戸時代の軍記物では“上州の黄斑(おうはん=虎)”と称されています。
虎!これまたカッチョいい!

 

長野業正と箕輪城

さて、なぜ私が長野業正さんのことをまとめようかと思ったか?
と言いますと、それは先日に居城の「箕輪城(みのわじょう)」に登城してきて、勝手に執筆熱が沸々としているためです!

10年近くぶりに行ってきたところ、発掘調査や整備が進み、城門が復元されるなど、見違えるような素晴らしい城跡となっていました。

現在は「日本100名城」に数えられていて、縄張り図(曲輪や堀、土塁などが記されたマップ)を持って広大な城域を歩けば、大満足間違いないでしょう。マジでオススメです。

箕輪城

発掘調査の結果を受けて復元された城門は、長野業正さんの時代より30年以上後に、井伊の赤鬼こと「井伊直政」によって建てられたものが基になっています。

「群馬県で?井伊直政?」という方もいらっしゃると思います。

実は、天正18年(1590年)に滅亡した北条家の替わりに関東に入った徳川家康が、上野(群馬県)の要衝である箕輪城に井伊直政を派遣して大改築を行なっているんです。
大規模な空堀や、一部残されている石垣などは井伊直政の時代に造られたものと言われています。

箕輪城

 

山内上杉家の重臣として

さてさて、この名城・箕輪城を居城とした長野業正さん。
生年は、延徳3年(1491年)もしくは1499年(明応8年)と言われています。

あの織田信長は天文3年(1534年)生まれで、業正のライバルだった武田信玄は大永元年(1521年)生まれですから、彼らと比べてめちゃくちゃ“お爺ちゃん武将”なんです!

実家の上野長野家は、先祖を辿ると“美男子”の代表で“三十六歌仙”の一人である「在原業平」(平安時代の歌人)になるといいますが詳細は不明。
15世紀半ばからグッと勢力を伸ばしていったようで、長野業正さんが生まれる頃には「山内上杉家」の重臣となったみたいです。

伝説的イケメン在原業平『伊勢物語』のモデルとされる貴族の生き方

続きを見る

山内上杉家という文字が目に入り、スッと読み進められるのは、かなり関東戦国史がお好きな方かと思います。
一般的には、こちらもよく知られてませんので、簡単に解説させていただきますと……。

もともと関東地方は、京都の足利将軍家から派遣された足利一門がトップを務めていました。

トップは鎌倉に拠点を置かれ、役職名は「鎌倉公方」。
公方というのは「将軍」の意味なので、つまりは「関東の将軍」という意味合いです。

そのナンバー2にあたるのが「上杉家」でした。
この上杉家が4家に別れて、それぞれ屋敷があった鎌倉の地名の名前で呼ばれるようになりました。

本家にあたるのが「山内上杉家」です。

他の分家3家は
「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」
「犬懸上杉家」
「宅間上杉家」
です。

扇谷上杉家の家臣には、江戸城を築いたことなどで有名な「太田道灌」がいますね。

太田道灌、暗殺! 初代江戸城の築城主が殺され後に謙信が世に出る

続きを見る

 

内紛が勃発 37年間に渡って争い続ける

少し話が逸れてしまいましたが、長野業正さんの主家である山内上杉家や、扇谷上杉家が関東で権力を握るようになると、鎌倉公方の足利家は「享徳の乱」で同地方から追放されてしまい、古河(茨城県古河市)へ逃亡。

この後は「古河公方」と呼ばれるようになります。

古河城

「これで関東は山内上杉家の天下!」となりそうですよね?

いえいえ、ことはそう単純ではありません。
今度は山内家同士での戦いが勃発してしまいます。

既に「犬懸上杉家」と「宅間上杉家」は滅亡しており、それに対して「扇谷上杉家」は絶好調!

山内上杉家
vs
扇谷上杉家

という「長享の乱」が起こります。ドロドロ!

しかも超驚くことに、「享徳の乱」は享徳3年(1454年)から文明14年(1483年)の29年間、「長享の乱」は長享元年(1487年)から永正2年(1505年)の18年間、つまり合計37年間も行われているんです。ドロドロの極み!

ゴチャゴチャっとしたので、以下に簡単にまとめ。

◆1454〜1482年
「享徳の乱」
鎌倉公方
vs
山内上杉家&扇谷上杉家

◆1487〜1505年
「長享の乱」
山内上杉家
vs
扇谷上杉家

◆1493年?
北条早雲の伊豆進出

◆1500年前後?
北条早雲が小田原城を奪取

こうした関東騒乱での間隙を縫うようにして、進出してきたのがあの北条早雲(伊勢宗瑞)。

元々は今川家の客将として駿河(静岡県)から兵を進めた早雲が伊豆から関東へ出ると、その2代目・北条氏綱が、小田原城(扇谷上杉家の拠点だった)を拠点にして本格的に関東へと勢力を拡大します。

ドロドロ合戦を続けていた山内と扇谷の両上杉家は窮地に陥り始めました。

小田原城

もはや関東は、大大大大、大戦乱!
今回の主人公とは直接関係ないお話のようですが、この主家の大ピンチに上州の要として忠義を尽くし、奮戦していくのが長野業正さんなんです。

 

3,000 vs 80,000の河越夜戦でまさかの……

時は天文15年(1546年)――。
当時、“相模の獅子”の異名を持つ3代目・北条氏康の時代になっていた北条家は、古河公方(足利家)と両上杉家のゴタゴタの隙を突いて武蔵国(東京都・埼玉県)にグイグイと勢力を伸ばしていました。

「さすがにヤバい!」
そう気づいたのか。
古河公方と両上杉家はついにタッグを組み、北条家の支城である河越城(埼玉県川越市)に攻撃を仕掛けました。

城兵の数が約3,000なのに対して、タッグ軍の数はなんと約8万!
このタッグ軍の山内上杉家の軍勢に長野業正さんもいたのです。

長野業正さんは上野国の西部の豪族たちによる「箕輪衆」を率いて参戦していました。

3,000に対して80,000は、さすがに長野業正さんが加わるタッグ軍が圧勝かと思われますよね?しかし……。

小田原城から援軍(約8,000)に駆けつけた北条氏康が偽りの降伏を申し出たためタッグ軍は油断。
夜襲を仕掛けられて大惨敗してしまいます!

河越夜戦」や「河越城の戦い」と呼ばれるこの戦い、織田信長の「桶狭間の戦い」と毛利元就の「厳島合戦」と並んで“日本三大奇襲”と呼ばれています。

1万vs8万で劇的逆転! 河越城の戦い(河越夜戦)の北条がスゴすぎる

続きを見る

この奇襲を受けて、扇谷上杉家の当主・上杉朝定は討ち死にして、扇谷上杉家は遂に滅亡……!
また、長男の長野吉業も重傷を負い、後にわずか16歳にして亡くなったといいます。

長野家に残された男子は、まだ3歳の次男・長野業盛だけです。
嫡男を失い、もはや滅亡寸前の主家。当時、56歳(もしくは48歳)になっていた長野業正さんの心情やいかばかりか…。

河越城

 

主君の上杉憲政が武田に大惨敗

悪い時に悪いことは続くものです。

翌年の天文16年(1547年)には、主君の上杉憲政(山内上杉家の当主)が「小田井原の戦い」で甲斐(山梨県)の武田信玄に大惨敗。

このとき長野業正さんは出陣に大反対をしたのですが、上杉憲政は意見を却下して、長野業正さんは参陣を拒否したそうです。スーパー爺の言うことを聞いておけば良いのに…。

そして、主君の上杉憲政が天文21年(1552年)には、前線基地だった古御岳城(埼玉県横瀬町)を北条家に攻められて上野国の平井城(群馬県藤岡市)に敗走するのでした。

「是非に及ばず……」
こう思ったかどうかは分かりませんが、ここにきて長野業正さんは遂に、主君を見限ることにしました。

主君の上杉憲政は、上野国を追われて越後国の春日山城(新潟県上越市)の長尾景虎を頼って落ち延びました。
長尾景虎は、永禄4年(1561年)に上杉憲政から家督を譲られ「上杉政虎」と改名し、元亀元年(1570年)頃に「謙信」の法号を名乗りました。

そうです、あの上杉謙信ですね。

こういった経緯から、長野業正さんは、長尾景虎こと上杉謙信と共同戦線を貼っていくことになります。

春日山城と上杉謙信像

 

信玄「長野業正がいる限り、上州に手は出せぬ……」

さて、主人公の長野業正さんはどうなったのか。

山内上杉家が事実上の滅亡ということは、北条家に従った?
答えは「否」!

長野業正さんは、かつての主君への義理を欠いてはいけないと、北条家には従わずに独自の勢力をキープし続けたといいます。
まさに国衆の矜持、ここにあり!

しかし、長野業正さん最大の敵がここで出現します。

元主君を数年前に完膚なきまでに破り、上野国の支配を目論む――そうです、武田信玄です。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-武田・上杉家, れきしクン

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.