岡崎義実

源平・鎌倉・室町

広常と大喧嘩した岡崎義実~純朴な坂東武者が頼朝の蜂起に駆けつける

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は言うまでもなく頼朝と北条が中心の物語。

と同時に絶対に欠かせないのが三浦一族でしょう。

佐藤B作さん演じる三浦義澄と、山本耕史さん演じる三浦義村、さらには横田栄司さんの和田義盛……だけではありません。

岡崎義実です。

ドラマでは、たかお鷹さんが演じられ、頼朝の「頼りにしてるぞ!」という誘い文句で、感動に震えてしまった老将――。

名字からは一瞬不明ながら、実は、畠山重忠に攻め殺された三浦義明の弟であり、義澄から見て叔父に当たる存在です。

ちょっとややこしいので、系図を簡単に確認してみましょう。

※クリックで拡大できます

三浦義明(長男)と岡崎義実(四男)が兄弟であり。

義明の下に三浦義澄が続くと、さらに次の世代で和田義盛・三浦義村・畠山重忠などが名を連ねるんですね。

三浦義明は衣笠城で孫の畠山重忠に攻められ、佐藤B作さん演じる義澄が「オヤジが死んじまった」と嘆いていましたが、そのオヤジの弟に当たる岡崎義実。

彼は一体どんな武士だったのか?

ド派手な活躍こそないけれど、非常に重要な存在でもある。

正治2年(1200年)6月21日が命日となった老将の生涯を見てみましょう。

 

石橋山にもいた老将

岡崎義実は天永3年(1112年)、三浦義継の四男として誕生しました。

四男だけに「平四郎」と称され、勇猛であることから「悪四郎」と呼ばれることもあったとか。

そんな彼の出自である三浦一族は、源氏に忠誠を誓っていました。

ドラマの源頼朝は挙兵前夜に「お前だけを頼りにしている!」と土肥実平などにも声をかけていましたが、義実も感激した武士の一人。

史実でも嫡男・岡崎義忠と共に馳せ参じています。

※以下は土肥実平の考察記事となります

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岡崎以外にも味方をつけた頼朝軍はその後、伊豆目代の山木兼隆を襲撃し、そして迎えた石橋山の戦い――。

治承4年(1180年)8月。

当然ながら岡崎義実も親子で参戦し、嫡男の佐奈田義忠が奮闘しました。

岡崎父子の活躍があればこそ頼朝も窮地を脱し得たのであり、戦闘面でも非常に頼りになる武士といえるでしょう。

しかし悲しいかな、義実の嫡男・義忠は石橋山の合戦で頼朝をかばい、若くして討死を遂げてしまいます。

その悲劇性が江戸時代に注目され、イケメン若武者“佐奈田与一”として浮世絵の題材にもなりました。

残念ながらドラマではその死は描かれませんでしたが、本編後の紀行において、石橋山山頂の佐奈田霊社(神奈川県小田原市)は取り上げられています。

 

鎌倉入りから富士川の決戦へ

石橋山の戦いで大敗した頼朝軍は、散り散りになり房総半島へ。

合流し損ねた三浦一族は、岡崎義実の兄・三浦義明が、孫の畠山重忠に攻められ討死を遂げています(衣笠城合戦)。

そうした犠牲のあと、君臣は安房で再会を果たします。

義実は甥の三浦義澄や北条時政らと共に、後から到着した源頼朝を出迎えたのです。

坂東の風向きが変わり始めました。

彼らの奮闘のあと、異変を感じ取った千葉常胤上総広常らの大軍勢が頼朝の元へ参陣。

千葉常胤
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頼朝とその一向は、治承4年(1180年)10月6日に鎌倉へ。

再びドラマに注目しますと、このとき岡崎義実が「源義朝様の御霊を祀ってきた鎌倉の“亀谷”に御所を置いていただけませんか?」と北条義時を通じてお願いし、アッサリ断られています。

鎌倉を大都市にしたかった頼朝の意向はあるにせよ、義実の息子や兄に起きた悲劇を考えると、あまりに素っ気ない態度で無念に思われる場面です。

この場面は『吾妻鏡』ではこうあります。

父・義朝の旧跡である亀谷で、岡崎義実が寺院を建立しておりました。そのため、頼朝はここに御所を置くことは辞めたのです。

ドラマではこの因果関係を逆にすることで、君臣間のすきま風を強調しているといえます。

鎌倉入りを果たした頼朝軍は、一息つくと、すぐに次の戦いが始まりました。

平家の平維盛率いる追討軍が迫っていたのです。

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