村上義清

村上義清の居城だった葛尾城跡/photo by 前田左衛門左 wikipediaより引用

武田・上杉家

信玄に二度も勝った戦国武将・村上義清!謙信を川中島へ呼び寄せる

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真田幸綱の調略で堅城落ちる

砥石崩れの翌年天文20年(1551年)のこと。

難攻不落を誇った砥石城は、突如として武田信玄の手に落ちてしまいました。

武田信玄が兵を以って攻めても落とせなかったお城をいとも簡単に手に入れた人物こそ、ここで再登場、真田幸綱です。

かつては真田幸隆の表記が有名でしたが、最近の研究成果では真田幸綱が有力のようですので、こちらで統一しますね。

真田幸隆(真田幸綱)
信玄の快進撃を支えた真田幸綱(幸隆)子の昌幸や孫の幸村へ繋げた生涯62年

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武田信虎と手を組んだ義清さんに領地を追われたこの真田幸綱は、上野(群馬県)に逃れていました。

しかし、信玄のクーデターを機に武田家の家臣となり、憎き義清さんに対して謀略を駆使、天険の砥石城を調略によって乗っ取ったといいます。

さすが知将の代表です。

武田家ファンにとっては、ここから一気に楽しくなってくるところですが、村上家ファンにとっては奥歯をキリキリしたくなるところ。

砥石城の落城を機に義清さんの影響力は一気に低下し、それまで味方してくれていた国衆たちが次々に武田傘下に降ってしまいます。

徐々に孤立していく義清さん。

「もはや、これまで……」

天文22年(1553年)、義清さんはついに居城の葛尾城を捨てて越後(新潟県)に落ち延びました。

その地で義清さんを受け入れた人物こそ長尾景虎、後の上杉謙信です。まだまだ、義清さんの武将人生は終わりません!

越後(新潟県上越市)の春日山城本丸。上杉謙信の父・長尾為景が築城し、為景→長尾晴景(謙信の兄)→謙信→景勝(謙信の甥)四代の居城となった

 


そして川中島の戦いは5度起きた

義清さんに旧領復帰の援助を依頼された上杉謙信。

すかさず信濃北部に出陣し、武田信玄との合戦に臨みます。

こうして、戦国時代ファンなら誰しもテンションが上がる合戦「川中島の戦い」が勃発したのです!

「川中島の戦い」と称される合戦、実は全部で5回ありまして、武田信玄と上杉謙信が一騎討ちしたという伝説が残る一戦は『第四次』を指します。

5回分を軽くまとめておきますと……。

天文22年(1553年)
『第一次川中島の戦い』
別名「布施の戦い」

天文24年(1555年)
『第二次川中島の戦い』
別名「犀川の戦い」

弘治3年(1557年)
『第三次川中島の戦い』
別名「上田原の戦い」

永禄3年(1561年)
『第四次川中島の戦い』
「川中島の戦い」で最も有名・別名「八幡原の戦い」

永禄7年(1564年)
『第五次川中島の戦い』
別名「塩崎の戦い」

実に10年以上に渡って、やり合っているんですね。

なお、以下の画像は

川中島古戦場(長野市八幡原史跡公園)にある武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの像となります。

ここは『第四次川中島の戦い』で武田信玄が付近に本陣を張ったと伝わる場所ですが、実際に信玄と謙信が直接軍扇と刀で戦ったことは無いと見るのが史実ですね。

まぁ、それでも夢があるじゃないですか!

ということで村上義清さんに話を戻しましょう。

 


「故郷を取り返す!」

宿敵・武田信玄から旧領を奪還するため――義清さんは信濃衆の筆頭として川中島へ出陣したと言われています。

越後での義清さんの活動はほとんど分かっていません。

新参であるにもかかわらず謙信からはVIP待遇を受け、根知城(新潟県糸魚川市)の城主に任命されたことはわかっておりますが、そこまで。

武田信玄と上杉謙信の対戦も拮抗し、結局、義清さんの時代に信玄から故郷を奪い返すことは叶いませんでした。

享年73。

1573年(元亀4年)の元日にお亡くなりになったといいます。

義清さんの最期の地は根知城だったそうです。

奇しくも、その4ヶ月後の同年5月13日に武田信玄も亡くなりました。

この先は後日談――。

義清さんの息子は上杉謙信の養女を正室に迎え、上杉家一族である山浦家(断絶中だった)を特別に継ぎ「山浦国清」を名乗るようになります。

この山浦国清、義清さんの死から4年後の天正6年(1578年)、謙信の死によって【御館の乱】というお家騒動が上杉家で勃発すると、上杉景勝に協力します。

首尾よく景勝が勝利すると、その功績で“景”の一字を拝領して「山浦景国」と改名。

1582年(天正10年)には北信濃の要衝・海津城の城主に任命され、念願だった父・義清さんの旧領に復帰しながら、敵方への内通を疑われて根知城に戻されています。

 

故郷に戻ってきたもう一つのお墓

“甲斐の虎”と称される名将・武田信玄を2度撃破し、戦国の名勝負【川中島の戦い】の導火線となった義清さん。

そのお墓は、根知城があった糸魚川市の「安福寺」にひっそりと建てられています。

と、それだけではなく実は義清さんのお墓がもう1つあるんです。

亡くなってから84年後、明暦3年(1657年)のこと。

長谷川利次という江戸幕府の代官が、義清さんを供養するためのお墓を建立しました。

その場所というのが、葛尾城の城下町、義清さんの故郷だったのです。

長谷川利次は葛尾城があった坂木(現・坂城町)という町を担当していた優秀な代官で、地元の名家・村上家の没落を悲しく思い、義清さんや村上家末裔の方々と相談し、わざわざ安福寺から分骨をして、義清さんのお墓を建立したといいます。

義清さん、おかえり!

時空を超えて、旧領に復帰って、なんて良い話なんでしょう!

信濃の名将・村上義清さん。

ゆかりの葛尾城や砥石城、あるいは葛尾城の支城・荒砥城はいずれも急峻な山城で、登山は非常にしんどいですが、ぜひトライしてみてください!

特に荒砥城は、戦国時代の山城を復元していてタイムリップ感がハンパなく、超オススメです!

戦国時代の山城が復元されている荒砥城(川向かいにある葛尾城の支城)

なお、川中島の戦いについては以下の記事に第一次~第五次までまとまっておりますので、よろしければ併せてご覧ください。


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文:れきしクン(長谷川ヨシテル)

◆れきしクンって?

元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。

【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon link
『ポンコツ武将列伝』(→amazon link
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon link

◆Youtubeも絶賛放映中「それいけ!れきしクンTV」

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