松平忠吉/wikipediaより引用

徳川家

松平忠吉(家康の四男)は関ヶ原で大活躍!10万→52万石に大出世するも

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それから程なくして1607年に死亡。

28歳という若すぎる弟の死に、秀忠はとても悲しんだそうです。家康五男の信吉も、関が原後に病死しているので、徳川家にとっては不幸の多い時期でもありました。

ただし、家康の子供は、当時の基準からするとかなり生存率が高いほうです。

本サイトの歴女医・馬渕まり先生が以下の記事で述べておられますように、昔の赤ちゃんは成人すること自体が大変でした。

江戸時代以前の乳幼児死亡率が異常なのはナゼ? 大名家の子も多くが亡くなった

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記事によると
・初の人口調査(明治32年)で、生後1年未満の乳幼児死亡率が15%
だそうで。

江戸時代には当然、そのような調査はありませんが、
・成人まで生きられる割合は6-7割程度だったのではないか?
と目されております。

逆に言えば3~4割は亡くなってしまうものですが、家康の子供で幼いうちに亡くなったのは17人中3人でした。

2割弱ですから、通常に比べて【約2倍以上の生存率】となりますね。

 

家康の後家好み 実は「子供大好き」か?

家康が後家好みだったことは割と知られています。おそらくこれが子供の生存率を高めていたのではないでしょうか。

後家ということは既に子供を産んでいる可能性が高く、健康な子供を産める女性の判断基準としてはかなり信憑性があるといえます。

感情ではなく理論的な意味で子供を大事にしていたと見ることもできますね。日本一の権力者になるのですから、それぐらいの冷静さは必要だったのかもしれません。

興味深いことに、三代・徳川家光までは同じくらいの子供に恵まれています。

が、時代が下ると将軍の子供が半分以上も10歳未満で亡くなっていたりします。頑丈そうな八代徳川吉宗の子供でさえ、5人中2人は早世しているくらいです。

これは両親の栄養状態や体の鍛え方も影響してそうですね。

歴代将軍の中には、虫歯が酷かったり脚気を患ったり、戦国時代にはあまり見られなかった病気をしていた人もいました。

脚気は麦飯や玄米(ビタミンB1)で防ぐことができますが、江戸時代には玄米に代わって白米が主食でしたので、それまでより発症例が増えたのでしょう。

虫歯に関しては、白米の摂取に加えて、砂糖の生成技術が進んだことや輸入によって供給が増え、将軍の口にも入るようになったからでしょう。甘党だった将軍もいますし。

また、炊いた後のお米をお湯で洗ったりなど、毒を恐れるあまりいろいろしすぎて栄養が取れなくなっていったという理由もあります。

戦国時代はそんなことしてるヒマありませんから、家康のほうが後の将軍達より栄養状態が良かったかもしれません。

忠吉の知名度が低いのは、
・四男
・夭折
・同母兄や他の兄弟が目立つ
といった状況だったからでしょうか。

関ヶ原の話なんて、かなり面白いんですけどね。

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長月七紀・記

【参考】
国史大辞典
松平忠吉/wikipedia

 



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