祖父の松平清康に続き、父の松平広忠も不遇な死であったとされる徳川家康。
二人は家康の物語でも割とスポットライトがあたりますが、今回、注目したいのは広忠の妻にして家康のお母ちゃんだった女性。
於大の方(おだいのかた)です。
生まれは享禄元年(1528年)で慶長七年(1602年)に亡くなっておりますから、享年75となかなかの長寿ですね。
その生涯を見て参りましょう。
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嫁いだ後に実家の水野家が急に方向転換
彼女は三河・刈谷(愛知県刈谷市)の武士・水野家の生まれです。
刈谷は尾張と三河の国境付近にあり、織田と松平(のちの徳川)に挟まれていました。
当時はまだ東海道の情勢も落ち着いておらず、水野家も生き残るためには何か手を打たなくてはなりません。
そこで於大の方の父・水野忠政は、三河に勢力を築いていた松平広忠へ娘を嫁がせました。
結婚の翌年に家康を産んでいるので、そこそこ順調な新婚生活だったと思われます。政略結婚ですから、義務といえばそれまでですが。
しかし、実家の父が亡くなってお兄さんの水野信元が家督を継ぐと、水野家は方針を大きく変えてしまいます。
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「当主が家臣に殺されるような家と手組んでてもしょうがなくね? 今川と組むのもイヤだし」
そう考え、当時、急激に勢力を伸ばしていた織田信秀(織田信長の父)に味方したがったのです。
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節操ないと思われそうですが、より弱い勢力はより強い方へ従うほかない戦国時代ですから仕方がないですね。
結果、於大の方は松平広忠と無理やり離縁させられてしまい、水野家へ戻ることになりました。
出戻ったかと思ったらすぐさま久松家へ
出産の翌年ですから、家康はまだ物心もついていません。
家康が歴史上の超有名人の割に兄弟の話があまり出てこないのですが、この状況下では両親共に同じ弟や妹が生まれるわけもなく、当然の話ですね。
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時代が時代ですから、於大の方は、実家に帰ってもそのまま穏やかに暮らすことはできませんでした。
これまた兄の意向で尾張・阿久比城主(愛知県阿久比町)の久松俊勝に再度嫁いでいます。
久松家は、織田家と松平家の間でうまく身を処しており、水野家が松平家から織田家に鞍替えするにも便宜を図ってもらえると思ったのでしょう。
ここでも於大の方は三男三女を産んでますので、比較的子供に恵まれやすい体質だったのでしょうね。
当時の衛生状況や医療技術からすると、一人で何人も産める女性はそう多くはありませんから、体力や健康面でも優れていたようです。すると……。
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