於大の方(伝通院)

於大の方(伝通院)/wikipediaより引用

徳川家

於大の方の生涯|家康を出産後すぐに離縁された生母 その後の関係は?

2024/10/12

祖父の松平清康に続き、父の松平広忠も不遇な死であったとされる徳川家康。

松平清康は、家臣の阿部正豊に誤って殺され(森山崩れ)。

松平広忠は、家臣の岩松八弥に殺される(諸説あり)。

二人は家康の物語でも割とスポットライトがあたりますが、今回、注目したいのは広忠の妻にして家康の母だった女性。

於大の方(おだいのかた)です。

於大の方/wikipediaより引用

1602年10月13日(慶長7年8月28日)に享年75で亡くなっておりますので、当時でしたらかなりの長寿ですね。

彼女の生涯を振り返ってみましょう。

 

嫁いだ後に実家の水野家が方向転換

於大の方は三河・刈谷(愛知県刈谷市)の武士・水野家の生まれです。

刈谷は尾張と三河の国境付近にあり、織田と松平(のちの徳川)に挟まれていました。

当時はまだ東海道の情勢も落ち着いておらず、水野家も生き残るためには何か手を打たなくてはなりません。

そこで於大の方の父・水野忠政は、三河に勢力を築いていた松平広忠へ娘を嫁がせました。

水野忠政/wikipediaより引用

結婚の翌年に家康を産んでいるので、そこそこ順調な新婚生活だったと思われます。政略結婚ですから、義務といえばそれまでですが。

しかし、実家の父が亡くなってお兄さんの水野信元が家督を継ぐと、水野家は方針を大きく変えてしまいます。

「当主が家臣に殺されるような家と手組んでてもしょうがなくね? 今川と組むのもイヤだし」

そう考え、当時、急激に勢力を伸ばしていた織田信秀(織田信長の父)に味方したがったのです。

節操ないと思われそうですが、より弱い勢力はより強い方へ従うほかない戦国時代ですから仕方がないですね。

結果、於大の方は松平広忠と無理やり離縁させられてしまい、水野家へ戻ることになりました。

※以下は松平広忠の生涯まとめ記事となります

松平広忠
松平広忠の生涯|織田と今川に挟まれた苦悩の24年 最後は謎の死を遂げる

続きを見る

 


出戻ったかと思ったらすぐさま久松家へ

出産の翌年ですから、家康はまだ物心もついていません。

家康が歴史上の超有名人の割に兄弟の話があまり出てこないのですが、この状況下では両親共に同じ弟や妹が生まれるわけもなく、当然の話ですね。

時代が時代ですから、於大の方は、実家に帰ってもそのまま穏やかに暮らすことはできません。

これまた兄の意向で尾張・阿久比城主(あぐいじょう・愛知県阿久比町)の久松俊勝に再度嫁ぐことになりました。

久松家は、織田家と松平家の間でうまく身を処しており、水野家が松平家から織田家に鞍替えするにも便宜を図ってもらえると思ったのでしょう。

ここでも於大の方は三男三女を産んでますので、比較的子供に恵まれやすい体質だったのでしょうね。

当時の衛生状況や医療技術からすると、一人で何人も産める女性はそう多くはありませんから、体力や健康面でも優れていたようです。

 

桶狭間の戦い!家康も織田家に近づく

かくして、しばらく久松家で暮らしていた於大の方ですが、健気に家康との音信を取り続けていた彼女に、どこかの神様か仏様が味方してくれました。

永禄三年(1560年)の【桶狭間の戦い】により、家康が今川義元や今川氏の支配から脱することができたのです。

絵・富永商太

 

ここから家康は織田信長と連携を取っていき、それに伴って母親を手元に引き取ろうと考えました。

かといって於大の方だけを再び離縁させるような荒っぽいことはせず、久松家ごと松平姓を与え、傘下に組み入れるというダイナミックな方法でした。なかなか気前の良いやり方ですね。

なにせ、これからはいくらでも配下が欲しい時期でしたから、異母弟や異母妹も迎えれば母も喜んで一石二鳥と考えたのかもしれません。

 

天下人も実母には頭が上がらない

二人目の夫・久松俊勝は、その後、豊臣秀吉が関白になった頃に亡くなり、於大の方は当時の習慣として出家します。

そして家康や徳川家のために働いていました。

例えば、家康は小牧・長久手の戦いの後、松平定勝(於大の方の息子・家康からみて異父弟)を秀吉の養子にしようとしたことがあります。

松平定政の父・松平定勝/wikipediaより引用

於大の方はこれに大反対。

家康が断念せざるを得ないほどの剣幕で説得したそうで、「母は強し」と言ったところでしょうか。

また、豊臣家との関係が悪化した後には、高台院(ねね)に会いに行ったり豊国神社へ参詣するなど、間を取り持つようなこともしています。

その頃には70代のはずですから、やはり若い頃から体力のある人だったんでしょうね。

於大の方が亡くなったとき、家康は59歳。

関ヶ原の戦い前後にはアレコレ黒い思惑を巡らせていた家康が、一方で母親に頭が上がらなかったと思うと微笑ましく、そして母の偉大さがわかりますね。

なお、徳川家康の生涯については以下のマトメ記事を併せてご覧いただければ幸いです。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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