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【於大の方の生涯】
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桶狭間の戦い!家康も織田家に近づく
かくして、しばらく久松家で暮らしていた於大の方ですが、健気に家康との音信を取り続けていた彼女に、どこかの神様か仏様が味方してくれました。
永禄三年(1560年)の【桶狭間の戦い】により、家康が今川義元や今川氏の支配から脱することができたのです。

絵・富永商太
ここから家康は織田信長と連携を取っていき、それに伴って母親を手元に引き取ろうと考えました。
かといって於大の方だけを再び離縁させるような荒っぽいことはせず、久松家ごと松平姓を与え、傘下に組み入れるというダイナミックな方法でした。なかなか気前の良いやり方ですね。
なにせ、これからはいくらでも配下が欲しい時期でしたから、異母弟や異母妹も迎えれば母も喜んで一石二鳥と考えたのかもしれません。
天下人も実母には頭が上がらない
二人目の夫・久松俊勝は、その後、豊臣秀吉が関白になった頃に亡くなり、於大の方は当時の習慣として出家します。
そして家康や徳川家のために働いていました。
例えば、家康は小牧・長久手の戦いの後、松平定勝(於大の方の息子・家康からみて異父弟)を秀吉の養子にしようとしたことがあります。

松平定政の父・松平定勝/wikipediaより引用
於大の方はこれに大反対。
家康が断念せざるを得ないほどの剣幕で説得したそうで、「母は強し」と言ったところでしょうか。
また、豊臣家との関係が悪化した後には、高台院(ねね)に会いに行ったり豊国神社へ参詣するなど、間を取り持つようなこともしています。
その頃には70代のはずですから、やはり若い頃から体力のある人だったんでしょうね。
★
於大の方が亡くなったとき、家康は59歳。
関ヶ原の戦い前後にはアレコレ黒い思惑を巡らせていた家康が、一方で母親に頭が上がらなかったと思うと微笑ましく、そして母の偉大さがわかりますね。
なお、徳川家康の生涯については以下のマトメ記事を併せてご覧いただければ幸いです。
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参考文献
- 歴史読本編集部 編『物語 戦国を生きた女101人(新人物文庫 れ-1-43)』(KADOKAWA, 2014年6月8日, ISBN-13: 978-4-04-600409-3)
出版社: KADOKAWA(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 『国史大辞典』(吉川弘文館, 全15巻17冊, 1979–1997年刊)
出版社: 吉川弘文館/JapanKnowledge(公式案内)