本多正信/wikipediaより引用

徳川家

本多正信(家康の側近)は謀臣にあらず? 敗者に優しい平凡武将が徳川を支えた

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
本多正信
をクリックお願いします。

 

諸国を流浪の末、三河に戻る

諸国を流浪した末に、正信は再び家康に仕える道を選んだ。

ただし、復帰の時期がハッキリしない。

『寛永諸家系図伝』では元亀元年(1570年)【姉川の戦い】の頃。

姉川の戦いが雌雄を決する大戦にならなかった意外な理由【戦国野戦譚】

続きを見る

『藩翰譜』では天正十年(1582年)の本能寺の変後だとして、12年もひらきがある。

ここは、より古い寛永十八~二十年(1641-1643年)に幕府が公式にまとめた『寛永諸家系図伝』のほうが有力であろうか。

ともかく徳川家への復帰が確実にわかるのは、家康が武田氏の旧家臣に与えた朱印状からだ。

武田氏は天正10年に滅亡。

天正壬午の乱】を経て武田の領国や人材を獲得した家康は、急増した新参者たちの「徳川化」を進めることが重要な課題であった。

天正壬午の乱で昌幸の表裏比興が炸裂! 大国を翻弄した手腕とは【真田合戦譚】

続きを見る

ずっと家康を離れずにいた譜代よりも、一度、家康を裏切った「負の経歴」が逆に、敗者の武田旧臣を自然に取り込むにはうってつけの人材だったのではないか。

あくまで独断だが、例えば本多忠勝あたりだと武田旧臣たちに接し、統合はうまくいかなかったのでは?と想像してしまう。

同じように、当時は外様(三河ではなく遠江)の井伊直政が、武田の赤備えを吸収することで徳川第一の軍団にのし上がったこともある。

本多忠勝の生涯と5つの最強エピソード!年表付【徳川四天王 壱之太刀】

続きを見る

井伊直政―赤鬼と恐れられた42年の生涯まとめ【徳川四天王 参之太刀】

続きを見る

この時期(天正十三年)には、三河一向一揆の際に追放された三河本願寺派の有力7寺院にも三河への復帰が認められていた。

いわば家康の「和解の力」とでも言えるだろう。

これこそが、後の天下人レースを走る原動力となるのだが、背景には豊臣秀吉羽柴秀吉)との【小牧・長久手の戦い】をはじめとする、滅亡ギリギリに迫られた事情があったことも忘れてはならない。

小牧・長久手の戦い 豊臣と徳川の複雑な戦線&戦況がバッチリわかる!

続きを見る

 

裏切り者の汚名をすすぐため徳川に尽力

こうして裏切り者のレッテルを少しずつはがし、実績を積んだ正信。

天正十四年(1586年)に従五位下佐渡守に叙任され、名実ともに家康の側近となった。

小田原征伐後の天正十八年に家康が江戸へ入った後は、相模国の玉縄(神奈川県鎌倉市)に1万石を与えられ「大名」になっている。

関東総奉行として、家康の新しい拠点江戸を整備していくのだ。

小田原征伐で秀吉相手に退かず! 北条家が強気でいた小田原城はどんだけ強い?

続きを見る

が、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、思いもよらぬ苦渋を味わわされてしまう。

前哨戦となる【第一次上田城の戦い】では、徳川秀忠の参謀となっていたのだ。

第一次上田合戦で昌幸の策略が的中しまくった理由【真田vs徳川】

続きを見る

真田昌幸真田信繁真田幸村)が立て籠もる上田城へ大軍で攻め寄せたこの戦い。

真田の策謀により散々な目に遭わされ、関ヶ原の本線に秀忠が遅参したのはあまりに有名だろう。

真田昌幸~表裏比興と呼ばれた幸村の父・65年の生涯~真田丸で草刈正雄さん

続きを見る

真田幸村(真田信繁)45年の生涯!史実はどんな武将だった?【戦国真田三代記】

続きを見る

しかし、この一戦をもって家康の正信への信頼は変わらなかった。

むしろ、正信は「2度目の失敗」にさらに奮起したのではないか。

1603年(慶長8年)、家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開くと、その2年後には将軍職を秀忠に移譲。

徳川秀忠(家康の三男)関ヶ原の遅刻は冤罪か!? 二代目将軍の実力

続きを見る

家康自身は豊臣家との因縁の決着をつけるべく西の駿府城へ移った。

正信は江戸に残り、息子の本多正純と共に幕府運営の一手を担っていた。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-徳川家

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.