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【本多正信】
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諸国を流浪の末、三河に戻る
諸国を流浪した末に、本多正信は再び家康に仕える道を選んだ。
ただし、復帰の時期がハッキリしない。
『寛永諸家系図伝』では元亀元年(1570年)【姉川の戦い】の頃。
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『藩翰譜』では天正十年(1582年)の本能寺の変後だとして、12年もひらきがある。
ここは、より古い寛永十八~二十年(1641-1643年)に幕府が公式にまとめた『寛永諸家系図伝』のほうが有力であろうか。
ともかく徳川への復帰が確実にわかるのは、家康が甲斐武田の旧家臣に与えた朱印状からだ。
甲斐武田は天正十年(1582年)に滅亡。
【天正壬午の乱】を経て武田の領国や人材を獲得した家康は、急増した新参者たちの「徳川化」を進めることが重要な課題であった。
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ずっと家康を離れずにいた譜代よりも、一度、家康を裏切った「負の経歴」が逆に、敗者の武田旧臣を自然に取り込むにはうってつけの人材だったのではないか。
あくまで独断だが、例えば本多忠勝あたりだと、武田旧臣たちに接して統合はスンナリとはいかなかったのでは?と想像してしまう。
同じように、当時は外様(三河ではなく遠江)の井伊直政が、武田の赤備えを吸収することで徳川第一の軍団にのし上がったこともある。
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この時期(天正十三年)には、三河一向一揆の際に追放された三河本願寺派の有力七寺院にも三河への復帰が認められていた。
いわば家康の「和解の力」とでも言えるだろう。
これこそが、後の天下人レースを走る原動力となるのだが、背景には豊臣秀吉(羽柴秀吉)との【小牧・長久手の戦い】をはじめとする、滅亡ギリギリに迫られた事情があったことも忘れてはならない。
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裏切り者の汚名をすすぐため徳川に尽力
こうして裏切り者のレッテルを少しずつはがし、実績を積んでいって本多正信。
天正十四年(1586年)に従五位下佐渡守に叙任され、名実ともに家康の側近となった。
小田原征伐後の天正十八年に家康が江戸へ入った後は、相模国の玉縄(神奈川県鎌倉市)に1万石を与えられ「大名」になっている。
関東総奉行として、家康の新しい拠点江戸を整備していくのだ。
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が、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、思いもよらぬ苦渋を味わわされてしまう。
前哨戦となる【第一次上田城の戦い】では、徳川秀忠の参謀となっていたのだ。
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真田昌幸と真田信繁(真田幸村)が立て籠もる上田城へ大軍で攻め寄せたこの戦い。
真田との戦いに時間を取られ、関ヶ原の本戦に徳川秀忠が遅参したのはあまりに有名だろう。
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もっとも真田攻めは最初から秀忠に命じられていた役割だったとも考えられていて、実際、この一戦をもって正信に対する家康の信頼は変わらなかった。
むしろ、正信は「2度目の失敗」にさらに奮起したのではないか。
慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開くと、その2年後には将軍職を秀忠に移譲。
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家康自身は豊臣家との因縁の決着をつけるべく西の駿府城へ移った。
正信は江戸に残り、息子の本多正純と共に幕府運営の一手を担っていた。
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