松平忠直/wikipediaより引用

徳川家

松平忠直(家康の孫)はなぜ徳川家と上手くいかない? 幸村を討ち取ったのに

【人物概略:松平忠直

父は結城秀康(家康の次男)。
母は中川一茂の妹。

1595年に秀康の嫡男として生まれた。

幼名は長吉で、1606年に元服すると1607年には父の死去に伴い13才の若さで越前68万石を引き継ぐ。

1611年に徳川秀忠の四女・勝姫と結婚し、1614~1615年の大坂の陣にも参加。

夏の陣では忠直率いる越前勢が大坂城への一番乗りを果たし、真田幸村はじめ3750もの首を挙げている。

しかし、恩賞が少なかったために不満を抱き、幕府に対して数々の乱行を起こすと、ついに1623年、隠居を命じられた。

これにて忠直は改易に処されたが、嫡男の松平光長は越後高田藩主(26万石)に就任。

忠直はその後割と生き延びて、1650年に亡くなっている。

享年56。
※これより先、本文へ

 

松平忠直はなぜ三代目将軍になれなかったか

慶安3年(1650年)9月10日は、松平忠直の命日。

幕府によって隠居させられた忠直が、預かり先の豊後(大分県)で亡くなった日です(享年)。

松平忠直の父は、家康の次男・結城秀康(福井藩祖)。

つまり家康の孫であり、三代将軍・徳川家光の従兄にあたります。

本当なら、生まれた順番通りに父の結城秀康が二代目の将軍になり、忠直が三代目になる環境ではありました。

しかし秀康は若い頃に秀吉の人質になり、さらに関東の結城家へ養子に出ていたので将軍になることができなかったのです。

結城秀康(家康 次男)はブサメンだから父に嫌われたってマジ?

続きを見る

松平姓は許されたものの、その子供である忠直にも将軍になる権利は与えられませんでした。

これが忠直の性格を歪ませていくことになった……といわれています。

 

信長も愛した「唐物肩衝茶入・銘初花」が褒美だったのに……

かくして鬱憤の溜まる環境にいた忠直ですが、それでも世の中が落ち着くまでの間は、徳川一門としてきちんと働いていました。

大坂夏の陣であの真田信繁(真田幸村)を討ち取ったのも、実は忠直隊です。

あと一歩で徳川家康を殺すことができる!

というところまで追い詰めた幸村が力尽き、やってきた兵士に「俺の首を持ってけ」と差し出した――なんてカッコイイ逸話がありますが、実際は、戦乱の中で福井藩士・西尾仁左衛門が討ち取り、後の首実検(首の顔を確認すること)で判明したと伝わりますね。

真田幸村(真田信繁)45年の生涯!史実はどんな武将だった?【戦国真田三代記】

続きを見る

大坂夏の陣がわかる局地戦まとめ! 幸村が突撃し又兵衛が散った各地の戦績は?

続きを見る

それ以外に、大坂城へ一番乗りしたのも忠直でしたし、挙げた首の数は3,000以上ともいわれています。

普通なら勲功はダントツで第一!

となるはずですが、その前の冬の陣でヘマをやらかしてしまっていたためか、褒美はなんと茶器一個でした。

ただし、これがトンデモナイ代物でありまして。

あの織田信長足利義政も愛した「唐物肩衝茶入・銘初花」(からものかたつきちゃいれ・めいはつはな)という中国伝来の名品だったのです。

初花肩衝・模造品でしたら通販でも購入できます/石橋静友堂より引用

なんせ「茶入れの王」とも呼ばれる大名物ですからね。

漫画『へうげもの』を読んでさえいれば、誰もが知っている一国と等しく価値の高いものです。

以下の記事に、信長が愛した価値の高い茶器をピックアップしておりますので、よろしければ併せてご覧ください。

信長の愛した茶器&茶会 どんな名物を所持し、配下の者に与えていたのか?

続きを見る

古田織部(重然)信長や秀吉に仕えた『へうげもの』主人公って実際どんな人?

続きを見る

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-徳川家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.