秀吉の妻と側室

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

大の女好きだった秀吉には何人の側室がいた? 正室とは不仲だった?

成り上がりの金持ちが、美女をとっかえひっかえ自分のものにする――。

聞けば誰しも不快感を覚えてしまうであろう、この行状を堂々やってのけた人物がいます。

太閤殿下こと豊臣秀吉です。

側室にした女性は数知れず。当時から「アイツやり過ぎじゃね?」と指摘された行為は、なんとも節操なき相手にまで及んでいます。

織田信長の娘

お市の娘

前田利家の娘

蒲生氏郷の妹

その他もろもろ

現代で言えば、上司や同僚の身内に手を出しまくったわけですよね。

ここまで来ると、女癖が悪すぎて明治天皇に叱られた伊藤博文をも彷彿とさせますが、同時に豊臣秀吉は創作エピソードが多い人物としても知られます。

いったい秀吉には何人の妻や側室がいたのか?

どんな女性たちだったのか?

本稿で秀吉の女性遍歴を振り返ってみましょう。

※以下は伊藤博文の関連記事となります

女好きがもはや異常レベルの伊藤博文~女を掃いて捨てる箒と呼ばれ

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正妻・北政所

「ねね」か「おね」か。名前に諸説があり本稿では「ねね」で進めて参ります。

豊臣秀吉がねねと結婚したのは永禄4年(1561年)。

彼女は杉原定利の次女であり、浅野長勝の養女でした。長勝とは、秀吉と同じ足軽長屋に暮らしていた同僚です。

秀吉の姓である「木下」は、ねねの母方の姓を借りたものとされます。

それだけ秀吉の身分が軽かったということですが、彼女の家も同じ長屋ですから、そこまで出自の差はないでしょう。

ねねこと高台院/wikipediaより引用

二人は恋愛結婚、堅苦しい言い方をするならば「野合」(本人同士のみの合意による結婚)とされます。

当時としては珍しいとされ、フィクションではロマンチックに脚色されるものですが、いかんせん低い身分であればそこまで珍しくなかった可能性も。

足軽長屋での結婚はありふれていて、もしも二人が出世しなければ、ごくごく平凡な話として認知されていたでしょう。婚礼も、いたって気軽で質素なものだったようです。

結婚当時の年齢は秀吉が25歳、ねねが14歳から21歳まで諸説あります。

彼女にとって辛かったのは、男児を産めなかったことでしょう。

子供もおらず、実家も有力一族ではない。

それでも、秀吉や周囲から重要視されていた彼女は、頭の良い“賢夫人”であることが想像されます。

加藤清正福島正則ら、子飼い武将を慈しんでいたのも彼女の功績。

聡明で気立てがよい――さすが秀吉の天下取り貢献したとされる女性です。

しかし、後世では不名誉な印象が定着してしまいます。

淀殿への嫉妬から、子飼いの武将たちに【関ヶ原の戦い】で東軍につくよう誘導したとされてしまうのです。

・女の敵は女

・嫉妬心により豊臣を滅ぼした

こうした秀吉死後のねね(北政所)イメージは、あくまで後世のミソジニー(女性嫌悪)による捏造。

しかし、印象があまりに強くて物語が盛り上がるためか、大河ドラマはじめその他のフィクションでも誇張して描かれてきました。

近年ではそうした描写が減り、2016年『真田丸』の彼女は、むしろ豊臣家を守ろうとした人物像になっています。

なお『絵本太閤記』の秀吉は、ねねの前におきくという女性を妻としていますが、これは架空の人物とされます。

秀吉の正妻ねね高台院
秀吉の妻ねね(寧々 北政所 高台院)女癖の悪い夫をどう操作した?

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南殿

元亀元年(1570年)頃、秀吉はある女性に石松丸という男児を産ませています。

諸説ある中、その母とされるのが南殿。

長浜城主となった秀吉は、彼女を正式に妻の一人として迎えたとされています。

「南殿」という呼び名は、城の南側に住んでいたのでしょう。

このことにねねが機嫌を悪くして、織田信長はこんな書状を送ったとされます。

安土城に初めて来てくれてありがとう。

土産もすばらしくて、到底褒める言葉が見つからないよ。

お返しはどうしようか悩んだけれども、もう思いつかないんだよ。だからお返しは次に渡すことにする。

あなたの魅力はますます磨きがかかり、十だったのが二十になったくらい。

藤吉郎(秀吉)がウダウダ抜かしているというけれど、とんでも無い話だよ。

どこを探したってあなたほどの女性を、あのハゲネズミが見つけられるわけがないのにね。

だからこれからはあんまりぐちぐちしないで、明るく堂々と、嫉妬なんかしないでいきなよ。

妻は言いたいことを全部言うのではなくて、ちょっとセーブ気味にするといいかな。

この書状は藤吉郎にも見せること!

戦国ファンにはよく知られたこの手紙。ねねが手元に置いて、夫に見せていたからこそ現代にまで伝わっているのでしょう。

ねねの言動に参っていた秀吉にとっても、ギスギスしていたねねにとっても、ありがたい緩衝材のようなもの。

書状が送られたころ、南殿は女児を産んだと推察されます。

子供のできないねねにとっては非常な脅威であり、それで思うところがあったのかもしれません。

しかし南殿が生んだ子は二人とも夭折してしまい、彼女も出家してしまいます。

秀吉が天下人となる前の出来事だったせいか、有力な側室にも数えられていません。寛永11年(1634年)に死去したとされます。

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