お市の方

お市の方/wikipediaより引用

織田家

戦国一の美女と囁かれるお市の方(信長の妹)浅井に嫁ぎ柴田と共に滅びる波乱の生涯

戦国一の美女と囁かれる「お市の方」。

2023年の大河ドラマ『どうする家康』では北川景子さんが演じて話題となりましたが、戦国ファンにとっては以前からよく知られた存在でした。

なぜなら彼女は、織田信長の妹という出自だけでなく、夫の浅井長政が信長を裏切ったかと思えば、再婚相手の柴田勝家豊臣秀吉に敗れ、二人で自害という劇的な最期を迎えたのです。

それが天正11年(1583年)4月24日のこと。

しかも、この2人が自害すると、お市の方の娘たち――いわゆる浅井三姉妹(茶々・初・江)は秀吉に引き取られ、長女の茶々が秀吉の側室「淀殿(よどどの)」となり豊臣秀頼を産むわけですから、波乱に満ちた生涯とはこのこと。

まさに戦国時代を動かした女性とも言えます。

本稿では、そんなお市の方の生涯を振り返ってみましょう。

※以下は柴田勝家の生涯まとめ記事となります

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お市の方は生年も結婚年も不明だった

戦国時代の女性は謎多き人物が多いですが、お市の方もまた同様。

通説によると生まれは天文16年(1547年)とされていて、兄・信長の13歳下となります(信長は1534年生まれ)。

父は織田信秀で、母は土田御前

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しかし両親については不確定なところがあり、本当は「信長のいとこ」だったのが輿入れの際に「信長の妹」ということにしたのではないか?という指摘もあります。

彼女の経歴が明らかになるのは、この輿入れからとなり、嫁ぎ先はすでにご存知の方も多いでしょう。

北近江の浅井長政です。

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ここで問題が一つ。

お市の方は、いつごろ長政に嫁いだのか?

実は、信長の事績を細かに示す『信長公記』にも掲載されておりません。

そのためお市が嫁いだ年は以下のように

・永禄4年(1561年)
・永禄6年(1563年)
・永禄11年(1568年)

と諸説あるのです。

そんな細かいこと気にすんなよ……と私自身も言いたくなりますが、実は嫁いだ年によって大きく変わってくる重要なことがあるのです。

浅井長政の長男・万福丸です。

この万福丸が永禄7年(1564年)生まれなんですが……果たしてお市の実子かどうか? 結婚した年によって変わってきますよね。

その考察は後述するとして、ここでは仮に永禄11年(1568年)に結婚したとして話を進めたいと思います。

というのも永禄11年(1568年)は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした大きな節目だったからです。

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上洛のための政略結婚が成立

お市の兄である信長は若い頃から苦労の連続です。

父・信秀から家督を継いだのが天文21年(1552年)。

その後は弟の織田信勝はじめ他の親類に幾度も裏切られながら、14年かけてようやく1565年に尾張統一を果たしました。

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同時に美濃への進出も進めていた信長は、永禄10年(1567年)に斎藤龍興を追い出して美濃を制すると、本拠地を岐阜へ移転。

問題はこの先です。

以下の地図をご覧の通り、織田信長の岐阜城から西の京都へ進むには、浅井長政の小谷城付近を通らねばなりません。

※右から岐阜城(黄)、小谷城(紫)、六角氏の観音寺城(赤)、御所(黄)

尾張と美濃を有する信長にとって、北近江だけを領国とする浅井氏は、国力で見れば格下です。

しかしその北には浅井の同盟相手・朝倉義景がいて、真っ向から対戦すれば織田家は二国を同時に敵に回してしまう。

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それよりは政略結婚で浅井と同盟を結んでしまった方が早い。

お市の方は、そうして浅井家に嫁ぐことになったのでした。

 


仲睦まじい二人 長政とお市

幸いお市の方は、嫁ぎ先の浅井長政とは仲睦まじい関係だったと思われます。

というのも、永禄11年(1568年)に嫁いだその翌年から、実に1年おきに娘を出産しているのです。

俗に【浅井三姉妹】と呼ばれる女性たちで、いずれも名だたる武将たちに嫁いでいます。

浅井三姉妹の生年

①茶々:永禄12年(1569年)
→豊臣秀吉の側室

②初:元亀元年(1570年)
→京極高次の妻

③江:天正元年(1573年)
→徳川秀忠の妻

もし永禄4年や6年に嫁いでたとしたら、数年間子供ができず、永禄12年を皮切りに突如3人もの娘を約1年おきに恵まれたことになります。

もちろんそういうケースもあるでしょうが、戦国大名はいち早く子供を欲するものです。ゆえに嫁入りは永禄11年説とした方が自然でしょう。

実際、お市の方と浅井長政は互いに愛し合っていたようで、後に長政が信長と戦争状態に陥ったときも、

長政「信長公のもとへ帰れ」

お市「ならば、ここで殺しておくれ」

なんてヤリトリがあったと伝わります。

戦国時代の女性は、嫁ぎ先より実家を優先する傾向がありましたが、絶世の美女として名高いお市の方は、同時に女性としての情を優先する方だったのかもしれません。

話を戻します。

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