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【秀吉の妻と側室】
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淀殿
彼女も呼び方が複数あります。
かつては「淀君」が一般的で、大河ドラマでも『独眼竜政宗』まで、そう呼ばれていました。
現在は「淀殿」とされることが一般的ですが、当時もそうだったとは考えにくく、江戸時代以降の呼び方とされます。
しかし2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、豊臣秀頼を紹介するSNSで「淀君」を用いており、ドラマ制作の姿勢に不安を感じさせたものです。
※本稿は「淀殿」で統一
そもそも彼女は、浅井長政と織田信長の妹・お市の間に生まれた長女で、茶々という名でした。
淀殿が、戦国の女性らしい苦悩を幼くして味わうことになったのは天正元年(1573年)のこと。
伯父・信長により父が滅ぼされ、母と妹たちと共に城を出ることになったのです。
以降、およそ十年間、お市と三姉妹の平穏な生活が続きます。
そして天正10年(1582年)に織田信長が【本能寺の変】で討たれると、母のお市は柴田勝家に嫁ぎ、淀殿もついていきました。
なお、この縁談は、織田家の後継者を三法師(のちの秀信)とする【清洲会議】の結果により、信長の三男・織田信孝の意向で決められたものです。
しかし、北ノ庄城での生活は長く続きません。
翌年、父の勝家が秀吉との戦いに敗れ、母のお市と共に自害、淀殿を含む三人の娘たちは城外へ逃がされました。
かくして秀吉の庇護下に入った三姉妹の姿は、その後はっきりしません。
確たることとして追えるのは、嫁ぎ先が明らかになってからのこと。
淀殿は、天正17年(1589年)年に第一子・拾を産んでおり、そこから逆算して、天正16年(1588年)頃には秀吉の妻となったとされます。
ただし妹たちの縁談からすると、それ以前にある程度の発言力があってもおかしくはありません。
男児を授けた淀殿は、秀吉の寵愛を得ます。
天正18年(1590年)の【小田原の陣】にも彼女を呼び寄せていたほど。
しかし、この拾が幼くして亡くなると、秀吉はもう男児はできぬと相当落ち込んでしまいます。それが文禄2年(1593年)のことで、産まれてきたのはまたしても男児でした。
「おかかさま」「お袋さま」と呼ばれ、母として愛された淀殿は、側室ではなく、北政所と並ぶ正室としての権威を有していたとする説もあります。
若く愛される秀吉の妻として、花見や茶会で華麗な姿を見せていました。
しかし、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、その運命は暗転してゆきます。
家康の台頭に警戒した毛利輝元、石田三成らは、慶長5年(1600年)に【関ヶ原の戦い】で敗北してしまいます。
そしてその5年後の慶長10年(1605年)、父・家康から将軍職を譲られた徳川秀忠の御台所には、淀殿の妹・江(ごう)がいました。
姉妹の立場は逆転してしまったのです。
そのまま大坂で一大名として生きていければ、淀殿は満足だったかもしれません。
しかし、泰平の道はまだ遠い。徳川幕府に不満を持つ浪人たちが大坂城に集い、家康としても看過できなくなりました。
そして慶長19年(1614年)、大坂城は東軍に囲まれてしまいます。
和議が成立するも、結局その翌元和元年(1615年)、大坂城は炎上しました。
城に西洋渡来の大砲を容赦なく撃ち込まれ、淀殿はどれほどおそろしかったことでしょう。
我が子・豊臣秀頼と共に自刃し、戦国最後の女城主として炎の中に消えた……以降、女城主は途絶えます。
『どうする家康』では、幼い浅井三姉妹の妹二人は「家康が自分たちの父だったかもしれない」と語っていました。
しかし、淀殿は子を産み、地位をあげていく過程で、父・長政と母・市の手厚い供養を秀吉に頼んで、実現させています。
「家康が父だったかもしれない」という描き方は、父を慕っていた淀殿にとっては失礼な描き方かもしれません。
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松の丸殿
豊臣秀吉は派手好きとして知られます。
慶長3年(1598年)、間近に迫った死を予期していたのか。自分の寵姫たちをこれみよがしに醍醐の花見で侍らせました。
このとき、北政所と淀殿に次ぐ輿に乗せられていたのが松の丸殿です。
京極高吉の娘で、竜子という名で知られていますね。
しかし夫と兄は【本能寺の変】で明智光秀に味方して、【山崎の戦い】で羽柴軍に敗れると、彼女は兄・高次の命を救うべく、秀吉の側室となりました。
名門の出身かつ美貌であり、秀吉の寵愛も厚かった。
有力一族の娘を側室にして、女系の力も自らの権力構造に組み込みたい――そんな秀吉にとって彼女は美貌のみならず血統も相当に魅力的だったでしょう。
秀吉の死後は兄のいる大津城に身を寄せました。
慶長5年(1600年)の【関ヶ原の戦い】では西軍が大津城に大砲を撃ち込み、侍女二人が吹き飛ばされ、そばにいた松野丸殿は卒倒。
淀殿の仲介により和睦し、松の丸殿は京都に移りました。
そして寛永11年(1634年)、京都で亡くなります。
兄・高次の妻は、浅井三姉妹の二女・初です。
松の丸殿は、北ノ庄城から庇護された浅井三姉妹と共に安土城で暮らしていたという説もあります。姻戚関係を考慮すれば納得できる説といえます。
秀吉には側室が数多く残されています。しかし子がいないためか、その動向が追いにくくなっています。
加賀殿
前田利家の三女。
名は「おまあ(摩阿など複数の表記あり)」です。
【北ノ庄城の戦い】で利家が勝家の人質としたものの救出され、天正14年頃(1586年頃)には上洛し、側室とされたとされます。
病弱であり、父のもとにいることが多く、やがて側室であることを辞退。
京都で結婚するも加賀に戻り、慶長10年(1605年)に没したとされます。享年は推定30代前半とされます。
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