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【秀吉の妻と側室】
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甲斐殿
武蔵忍城の戦いで奮戦した甲斐姫のこと。
小田原落城により降伏し、秀吉の側室となりました。
慶長8年(1603年)に没したとされます。
三の丸殿
織田信長の五女で、母は信忠の乳母とされます。
三条殿
蒲生賢秀の娘で、兄は蒲生氏郷。
お虎という名前が伝わります。
姫路殿
信長の弟である織田信包の娘、つまりは信長の姪となりますね。
姫路城に住んだことから姫路殿とされるものの詳細は不明です。
香の前
名はお種。
秀吉が伊達政宗の家臣である茂庭綱元と囲碁をするときに賭け、綱元が勝利しました。
はじめは政宗が寵愛し、綱元に下げ渡されたとされます。寛永17年(1640年)没。
その他
南の局、広沢局、円融院こと宇喜多秀家の母など。
秀吉には、他にもまだ複数の側室がいたと伝えられます。
太閤殿下が美貌の姫を見つけて、ワシの側に来いと迫る――そんな伝説も数多残されましたが、実際、好色だったことは確かでしょう。
「秀吉は強烈な肉欲に取り憑かれている」という記録が宣教師はじめいくつも記されていますし、醍醐の花見のように華麗な美女を見せびらかすことも、そうした印象を強めました。
そんな秀吉の女性遍歴を見ていると、わかりやすい傾向が浮かんできます。
権力の上昇と共に側室が増えている。
子が産まれず、実家に権勢があるわけでもない、そんな妻(ねね)の顔色を当初はうかがっていたものの、自身が出世するにつれ徐々に罪悪感など薄れていったのでしょう。
かくして手にした数多の女性たち。
秀吉の好みは「上淫(じょういん・身分が高い相手に情欲を覚えることで対義語は下淫)」と評されることがありますが、実際そうなのか?
あらためて彼女たちの顔ぶれを確認すると、必ずしもそうとは断言できないでしょう。
秀吉は貴族社会でも関白にまで昇りつめながら、公卿の姫君よりも武士の女性を選んでいました。
武家同士の繋がり――つまりは政治的関係も考慮した結果では?とも思えます。
もちろん、節操のない秀吉の好色ぶりは生前当時から伝えられていましたので、派手に見せびらかすようなパフォーマンスが、こうした「上淫」の印象を高めたのでしょう。
あるいは、豊臣家が滅んでしまい「側室のイメージが悪くなった」ことも影響しているかもしれません。
賢夫人ねねと気の強い淀殿――そこにコメディタッチで秀吉のおちゃらけ描写が加わり、彼の生々しい好色っぷりが世間へ広まってしまった。
秀吉の女性関係は江戸時代から誇張ありき
それだけに当時からフィクションでよく取り上げられ、女性関係はことさら面白おかしく描かれるだけでなく、ときには「豊臣家滅亡の原因」とすらされてきました。
そうした創作話による偏見を取り除いていくと、彼女たちの新たな像が浮かんできます。
豊臣家の存続を願ってきた北政所。
最後の女城主ともいえる淀殿。
彼女たちが、いがみ合うばかりの女性でなかったことは、前述の通り大河ドラマ『真田丸』でも描かれた通りです。
しかし、淀殿には、稀代の悪女として描かれた長い歳月があり、今後も、その誤解を払拭するのはなかなか難しいことかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田千鶴『淀殿』(→amazon)
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』(→amazon)
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他