慶長三年(1598年)の3月15日、豊臣秀吉が醍醐の花見を開催しました。
3月15日とは随分早い時期だなぁ……と思われるでしょうが、旧暦の3月15日ですので、現代の暦に換算すると1598年4月20日になります。
すると今度は遅い時期だなぁ……となりますね。
戦国時代は小氷河期時代とも言われ、今より寒冷な気候だったため桜の開花時期も違ったものと思われます。
いずれにせよ豊臣秀吉が病に倒れたのはこの年5月、亡くなったのは8月ですから、ある意味死に土産ともいえます。
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派手好みな秀吉らしい華やかで盛大なお花見
秀吉のお遊びイベントと言えば……北野大茶会(1587年)は失敗に終わっています。
広く庶民たちにも参加の呼びかけを行い、現在で言えば一大野外フェスのような気合の入れようだったのに、結局、参加者は約800人。
日本のトップが呼びかけたものにしては極めて寂しいものでした。
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しかし、醍醐の花見は違います。
このときは北政所(ねね)や淀殿・秀頼ら近親者はもちろん、お側の女官や大名の妻たちまで集めて1300人以上も参加。
実に華やかで盛大で、派手好みな秀吉の頬を緩ませたことでしょう。
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もっとも肝心の大名衆はほとんど朝鮮出兵(慶長の役)に行ってたんすけどね。
残っていたのは、秀吉と前田利家以外は小姓か子飼いか女性ばかりというけしからん宴であったワケで……。
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昔は花といえば梅だった
さて、気になるのは、お花見は、いつごろ日本文化になったのか?
秀吉がやっているということは当然戦国時代には定着していたわけですが、その始まりは平安時代あたりまでさかのぼります。
というのも、奈良時代くらいまでは中国文化の影響が強いため、同じ「花見」でも見る対象が違うのです。
中国では梅の花が尊ばれていたので、日本もそれに倣って「花といえば梅」という風潮がありました。
中国文化に詳しかった菅原道真が梅を好んだのもこのためでしょう。
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桜が梅より好まれるようになったのは、遣唐使が廃止されてしばらく後のこと。
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日本独自の感覚が育ってきて「もののあはれ」こそが風流であるとされてきたあたりです。
これは和歌集で見るとわかりやすいかもしれません。
平安初期までに編まれた『万葉集』には桜より梅を詠んだ歌のほうが多いのですが、100年ほど後に編纂された『古今和歌集』は数が逆転しているのです。時代の流れと共に人々の好みが変わってきたんですね。
梅と桜以外はどうだったかというと、菊の鑑賞が好まれました。
しかし樹木ではなく草ということもあってか、自然に植わっているものを見るよりは鉢植えを一堂に集めて見比べるという鑑賞の仕方が多かったようです。重陽の節句とか。
桜や梅に対し、菊の花を詠んだ歌がその二つと比べて少ないのはこのためかもしれません。
桜・菊・梅 が大好きな日本人
菊を詠んだ歌の有名どころでは百人一首29番、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)作のこれですかね。
「心あてに 折らばや折らむ 初霜の おき惑わせる 白菊の花」
「ここには白菊の花があるはずなのだが、初霜が降りたのに紛れてしまって、どこにあるのかよくわからない。気の向くままに手折ってみようか」
貴族らしい、風流なおふざけの効いた歌です。
ついでに同じく百人一首から、桜の歌と梅の歌も一つずつ挙げておきましょう。
桜・33番 紀友則
「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」
「久々に晴れた良い日和だというのに……桜よ、なぜお前は落ち着きなく散ってしまうのだ」
梅・35番 紀貫之
「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににおひける」
「あなたの心は変わってしまったかもしれないが、ここにある懐かしい梅の木は、昔と同じ香りで迎えてくれていますよ」
桜の歌は他にもあるんですけども、順番の近いところでまとめてみました。
古典で文法とか活用とか覚えさせられるとイラっとしますが、こういう具体的な物の名前が出てくると歌の意味が少しわかりやすくなる気がします。和歌だけに「わかりやす……」失礼しました。
鎌倉時代あたりには庶民にも
ええと、気を取り直しましてお花見の話です。
こうして平安時代には貴族の間で「花見=桜」の概念ができ、鎌倉時代あたりには庶民にもその影響が出ていたと見られます。
これまた教科書でおなじみの「徒然草」の137段に「皆満開の桜ばかりもてはやすが、散った後の姿も風情があるし、逆に満開の桜を頭の中で思い浮かべるだけでも楽しめるものだ」という記述が出てくるのです。
ということは、ある程度広い層に桜が好まれていて、花見に出かける習慣ができ始めていたということですよね。
室町時代になるともっとわかりやすく、足利義満が京都の引接寺(いんじょうじ)というお寺の桜をいたく気に入り「これをバックに狂言を見たい」と言い出して、その通り桜の時期に執り行わせたという話が伝わっています。
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お寺へは扶持米(通常は武士の家族手当みたいなオマケの米のこと。ここではお寺へのオマケ)をあげていたらしいので、さすがの義満もタダで無茶振りをするほど面の皮は厚くなかったようです。
この「普賢象桜」(ふげんぞうさくら)は花びらが散るのではなく、椿のように花が丸ごと落ちるため、斬首の様を思い起こさせて罪人を改心させるのに役立ったと言われているのですが、そんなのに見入ってた義満のセンスやっぱりパネェ。
もっと気の毒なのは、背後でぼとぼと花が落ちるのを聞きながら演じるハメになった役者かもしれません。合掌。
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