鎌倉・室町・江戸幕府を合わせると、全部で39人(鎌倉9代・室町15代・江戸15代)いる征夷大将軍。
このうち小中学校の教科書にも登場し、歴史好きでない方も見覚えがあるのは
・源頼朝
・足利尊氏
・足利義満
・足利義政
・徳川家康
・徳川家光
・徳川綱吉
・徳川吉宗
・徳川慶喜
上記の9名ですよね。
では、この9名のうち、最もド派手な建物を建てた人といえば?
金閣寺(鹿苑寺金閣)でお馴染みの室町幕府三代将軍・足利義満でしょう。
今回は応永十五年(1408年)5月6日に亡くなった、義満の生涯を追いかけてみたいと思います。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
母は二代将軍義詮の側室だった
足利義満は、幼い頃から色々と逸話に事欠かない人です。
例えば彼が生まれた延文三年(1358年)8月22日という日付。
祖父・足利尊氏が亡くなってちょうど100日経った日でした。
こうなると生まれ変わりだのなんだのという伝説になりやすい傾向がありますが、尊氏と義満は真逆といっていいほど似ていないためか、その手の話は聞きません。
義満の母は紀良子という側室でした。
石清水八幡宮の聖職者の娘で、母方から皇室の血を引いています。
当時、父の二代将軍・足利義詮と、正室・渋川幸子の間に生まれた男子は既に夭折していたため、義満は嫡男として扱われました。
幼名は「春王」であり、なかなかめでたいというか、幸先が良さそうな感じがしますね。
我が子を失った幸子は義満を養子として扱い、義満もそれを受けて跡継ぎとしての自覚を育てていきました。
同母弟として足利満詮(みつあきら)という人がいましたが、彼は義満とは真逆に控えめな人物だったらしく、徹底して兄の陰に立って働き、後に自ら出家しています。
似てない兄弟のほうがうまくいくものかもしれません。
一方で、義満が生まれた頃はまだ幕府も政治も落ち着いておらず、父の義詮は南朝との戦いのために京都を出たり入ったりといった状況。
幼い義満も建仁寺に匿われたり、家臣に守られて播磨へ逃れていたりと、なかなか忙しない状況で育ちます。
播磨白旗城の主・赤松則祐とその家臣たちは、幼い次期主君のために正月の松囃子でもてなしたとか。
当時の義満は数え4歳でしたが、これが気に入ったのか、後々「毎年正月に将軍が赤松邸で松囃子を見る」という習慣を作っています。
この親密な将軍家と赤松氏の間で、後々【嘉吉の乱】という大事件が起きるのは皮肉なものです。
その件はまた別の記事で取り扱っていますので、よろしければ併せてご覧ください。
嘉吉の乱で足利将軍が暗殺!幕府衰退が始まった一大事件は意外とグダグダな展開
続きを見る
幸い、程なくして京へ帰れることになりましたが、義満はこのとき途中で泊まった摂津(明石か須磨あたりとされる)の景色をいたく気に入って、
「ここの景色を京に持って帰りたい。お前ら運べ」(意訳)
とのたまったそうで。
破天荒で豪快な義満の性格をよく表す逸話ですね。
その後、家臣たちが何と言って義満を諦めさせたのかが気になるところですが、そこまでは記録されていません。
後世の人間からすると、そっちの方が気になるような……。
家臣に恵まれスクスク育つ
無事、京都に帰った足利義満は、管領・斯波義将の教育を受けながら、赤松則祐とも良い関係を続けました。
正平二十一年/貞治五年(1366年)には、北朝の後光厳天皇から「義満」の名と従五位下の位階を授かっています。
同年、貞治の変により斯波義将らが失脚したため、新たに細川頼之が管領となりました。
義満最大の幸運は、このように近臣が入れ替わっても、忠誠心のある人が常に側にいたことでしょう。
ほんの30年前に滅びた鎌倉幕府が、血縁者同士・御家人同士、はたまた御家人(幕府の家臣)vs御内人(北条氏の家臣)の争いに明け暮れていたのと比べると、奇跡といってもよい恵まれっぷり。
祖父の足利尊氏と、大叔父の足利直義も【観応の擾乱】でドタバタしていましたしね。
そんな義満が家督を継いだのは貞治六年(1367年)12月のことです。
父・義詮が病没し、まだ11歳にして家督と将軍位を継ぎました。
元服は翌応安元年(1368年)4月のことであり、元服式の主だった役目は全て細川氏が担当、周囲をがっちり固めていたとか。
さすがにまだ実務はできませんが、細川頼之らによって土地制度や宗教関係の整備が進み、義満はそれを見ながら育ちます。
ちょうど幼い頃の北条時宗が、親戚である北条実時の仕事ぶりを見ながら成長したのと、構図的にちょっと似ていますね。
応安三年(1370年)には、朝廷から延暦寺とその支配下にある者への取締権を与えられ、順調に将軍として認められていきます。
さらに、北小路室町の地に新たな屋敷を建て、それまで住んでいた三条坊門第から引っ越しました。
このことから、足利氏の幕府を「室町幕府」と呼ぶようになっています。
義満は前述の「景色を持ち帰る」話からもわかるように、景観づくりを好んだらしく、公家たちから名木を集めて典雅な屋敷を作り上げました。
特に近衛家の糸桜(枝垂れ桜)は名指しで所望され、この屋敷が「花の御所」と呼ばれる由縁となっています。
将軍継承も済み、新たに屋敷も建てた……とくれば、次に片付けるべきは結婚です。
正室に日野業子(なりこ)という女性を迎えたのは応安七年(1374年)のことでした。
彼女は藤原北家の流れをくむ日野家の娘で、和歌を得意としており、義満に愛されたといわれています。
残念ながら二人の間に子供が生まれなかった(あるいは生まれても夭折した)ためか、義満は側室を多く抱え、あっちこっちで子供を産ませることになります。
しかし、後に将軍となる足利義持・足利義教の母である藤原慶子が亡くなったときの冷淡ぶりからすると、義満は正妻の業子を愛していたようです。
一方、慶子に対して冷たかったせいで、息子である義持との仲があまり良くなかった……という説もあります。あるあるですね。
義満の功績の一つに明(当時の中国)との貿易を大々的に行ったことが挙げられます。
少なくとも結婚する前後あたりからその構想を抱いていたようで、明に申し入れたことがありました。
しかし、その頃の明は
・南朝を唯一の通商相手としていたこと
・明の皇帝から見て義満は陪臣に過ぎないこと
から交渉失敗。
まぁ普通は、一つの国に二つの政権があるとは思いませんもんね。
南北朝時代は、外交関係においても、いささか面倒な事態を引き起こしていたんですね。
義満も「これは一筋縄ではいかない」と考え、いったんこの件は後回しにしました。
※続きは【次のページへ】をclick!