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【足利義満】
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明に対しては名より実を取った?
足利義満が出家をしたのは、明への貿易許可を求めるためでもありました。
中国の王朝は代々「ウチの臣下になるなら付き合ってやってもいいぞよ」というスタンスの外交でしたので、そういう形式にしないと交渉にも応じてくれない。
そこで義満は国内の問題を一通り片付けた上で、明の皇帝に
「大明の皇帝陛下にお手紙を奉ります」
で始まる手紙を送り、改めて交渉したのでした。
義満が形式上、明の臣下になり、日本の主権者という扱いになるのです。
この作戦がうまくいき、明から「そんならお前を”日本国王”にして貿易してやんよ」(意訳)という許可が出ます。
こうした経緯から「義満は皇位を簒奪しようとした」なんて言われたりもしますが、実際は違うのではないでしょうか。
中国の歴代王朝から見て、「王」は中国に朝貢する国の代表者のことです。
つまり、日本の官職を辞した後の義満が日本国王になったということは、義満が個人的に明の臣下になったということになります。
これなら、天皇や朝廷の権威や立場は損なわれません。義満が狙ったのはそこだと考えられないでしょうか。
実質的に明へ引っ越すわけでもありませんし、貿易で見込める利益のほうがずっと重要ですし。
そもそも、天皇よりエラくなりたいなら、明の皇帝の家来になるのもイヤだと思うほうが自然でしょう。
よほど明を神聖視していて、日本を卑下していたならともかく、そのそぶりもありません。
書面の上では明の皇帝を主君として、義満自身のことは「臣」と書いていますし、明の要求で倭寇(海賊)退治をしたり、来日した明の使節を手厚くもてなしたりはしていますが、貿易で得られる富に比べれば安いはず。
義満の性格からして「書面でへーこらすれば、貿易させてくれるなんて、意外とチョロいよな笑」ぐらいのことは思っていそうです。
また、朝廷が大金を必要とした際、義満は気前よくお金を出しています。
行事そのものにも積極的で、公家の作法も学び、礼儀に沿った振る舞いをしていました。
朝廷に食い込んで意のままにするため、ともとれますけれども、武力でねじ伏せたり「金の無駄だから行事などやめろ」と強要することも可能だったはずです。
それをしなかったのは、「皇室と朝廷をできるだけ良い状態に保っておいたほうが、自分たちのためにもなる」という計算が働いていたからではないでしょうか。
上記のように、義満は「自分は源氏の名門である」という自負があります。
そして源氏の大本は皇室です。
それをかなぐり捨ててまで、心の底から明の臣下になりたいとは思わなさそうなんですよね。
これはあくまで私見ですし、義満の心中まではわかりませんが。
文化育成にも余念なく
その後の足利義満は京都北山に別荘を建てて移住。
現代でも有名な「鹿苑寺金閣」を含むところです。
ついでにいうと、鎌倉幕府が倒された後、公家の西園寺公宗が後醍醐天皇を暗殺しようとした場所でもあります。
土地なら他にも選べたでしょうに、なんでそんなところを選んだのかについては、やはり理解し難いところですが……義満の性格からすると
「景色が気に入ったからここがいい。曰く付き?そんなのワシは気にしないもんね!」
なんて理由でもおかしくはなさそうです。
ここに移った後の義満は、能を大成させた観阿弥・世阿弥らを庇護しつつ、【北山文化】と称される文化を花開かせます。
公家たちによって和歌や管弦、蹴鞠の会なども開かれ、ようやく京の町が「花の都」らしさを取り戻していきました。
この間、一応将軍職を継いだはずの義持は頭を押さえつけられたような形。
しかし義満は他の子供達をほとんどお寺に入れて、後の禍根が残らないようにしていたので、まずまずの処置をしていたのではないでしょうか。
一時は異母弟・義嗣が後継者にされそうでしたけれども。
とはいえ、さすがの義満も寄る年波にはいつまでも勝てず……応永十五年(1408年)病に倒れ、何度か持ち直しながらも同年5月6日に亡くなります。
享年51。
現代からするとまだ若く思えますが、当時でしたら大往生と言っていい年齢でしょう。
★
最期の最期で、あまり仲の良くなかった息子・足利義持が、快癒の祈祷をあっちこっちに命じてくれたのは、救いだったかもしれません。
義満の遺骨は相国寺塔頭鹿苑院に葬られました。
残念ながら、鹿苑院は江戸時代中期の天明八年(1788年)に起きた【天明の大火】で焼けてしまい、その後、明治時代の廃仏毀釈で寺ごとなくなって、当時のお墓がどこの誰だかわからなくなってしまいました。
代わりに金閣が昭和まで残り続けたので、義満本人としては本望だったかもしれません。
よくわからん理由で放火されてしまいましたが、放火後の写真ですら美しく見えてしまう建築物など、世界に目を向けてもそうはないでしょう。
武力以外の方法も巧みに用いた義満。
彼のようなタイプこそ、現代人が見習うべき人なのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
安田 元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon)
久水俊和『「室町殿」の時代』(→amazon)
国史大辞典