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【足利義満】
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守護大名には実力行使じゃい
寺社に対しては剛柔使い分けていた感が強い足利義満。
その反面、守護大名とのトラブルについては、実力行使が多いのも特徴です。
① 美濃の有力者・土岐氏の内紛を力でねじ伏せて土地を没収(土岐康行の乱)
② 山陰で11ヶ国もの守護を務めていた山名氏清をわざと反乱させて討伐(明徳の乱)
③ 大陸との貿易で莫大な財を築いていた大内義弘を挑発し、半ば騙し討ち(応永の乱)
この辺はなかなかドス黒いものが見えますが、尊氏や義詮の時代のことを考えると、こうでもしなければ収まらなかったのでしょう。
祖父や父の轍を踏むまいと考えて、短期解決を優先したのでしょうか。
後年の【応仁の乱】でも、将軍が積極的に行動しなかったために、話と戦がこじれて戦国に突入してしまっていますし。
その後も寺院の建立を並行して複数行ったり。
摂関家と親密になって偏諱を与えたり。
武家として初めての源氏長者(公家・武家問わず源氏の流れを汲む中で一番官位が高い人)になったりもしました。
教科書では「義満の権力がスゴかったので誰も逆らえませんでした」というような雰囲気で簡単にまとめられてしまっていますが、この辺も押さえておくと理由がわかって面白いですね。
強訴に毅然と立ち向かったり、行事を復活させたり、武家同士の争いを鎮めたり、義満がそれに見合う功績をきちんと挙げていたからこそ、そういう立場になれたのです。
むやみやたらに刀を振り回して威張り散らしていたわけではありません。
むしろ、周りの人々が義満に媚びへつらって女性を差し出したりしていました。
どっちかというとこれのほうが問題かもしれません。古今東西よくある話ですけれどもね。
また、義満は「イメージ戦略」を効果的に用いた人でもあります。
富士山や厳島神社、高野山、春日大社への遠足(超訳)もやっています。
もちろん、ただの遊びではありません。
中央政権で充分に権威を得たので、次はそれをできうる限り広い範囲に見せつけ、
「いざとなったらワシがここまで来て相手してやんよ!」
と示したのです。
この頃には義満の活動はほとんど公家的なものになっており、花押も公家風にしたほどでしたが、「だからって武力を捨てたわけじゃないからな」と釘を差したのでしょう。
南北朝問題を解決(仮)
足利義満の功績として最も挙げられる頻度が高いのは、やはり【南北朝の統一】でしょうか。
祖父・尊氏がこじれさせたこの問題を、孫の義満が平和的に解決しています。
義満が主導し、南朝・北朝それぞれから折衝担当がついて、
・南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇へ三種の神器を引き渡す
・後小松天皇の皇太子は南朝方から立て、両統迭立の状態に戻す
などで合意しました。
明徳三年/元中九年(1392年)閏10月に結ばれたため、【明徳の和約】と呼ばれます。
このとき南朝方の代表者に楠木正儀(まさのり)がいるのがなかなか興味深いところです。
ただしこの一件は後小松天皇に詳細が伝えられないまま進められたようで、義満の死後にもう一度問題が再燃することになります。
それで誰が対処にあたるかというと、当然跡を継いだ義満の子・足利義持なわけで……そりゃ父親のことが大嫌いになりますよね。
ちなみに、義満は明徳の和約が結ばれてからおおよそ二年後、応永元年(1394年)12月に将軍職を義持に譲って出家しています。
もちろん実権は手放していません。
ではなぜ足利義満は出家をしたのか?
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