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【足利義満】
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ウチら源氏だから関係ないんで
足利義満の実務能力が評価されたのでしょう。
朝廷での官位もガンガン上がっていきました。
二条良基の支援を受け、公家社会の中にも積極的に入っていきます。
それがプラスに働いたのが、天授四年/永和四年(1378年)に起きた【康暦の強訴(こうりゃくのごうそ)】という事件です。
”南朝方に奪われた寺社領の変換を求めて、興福寺の宗徒が春日大社の神木を掲げて訴えてきた”というものでした。
強訴というと、かつて権勢を誇った白河天皇が「加茂川の水、双六の賽、山法師」と並び称した延暦寺のものが有名ですが、さらに古い歴史を持つ興福寺も度々やっています。
興福寺は、藤原氏の祖先である鎌足と不比等にゆかりの深いお寺であり、さらに春日大社には藤原氏の祖先とされる天児屋命(あめのこやねのみこと)が祀られています。
つまり、興福寺や奈良の宗徒が強訴にやってくると、藤原氏系の公家は実質的に出仕できなくなってしまう。
そして当時の貴族社会といえば、どこかしらで藤原氏と血縁がある家が大多数。
「お前らのご先祖様が怒ってるんだぞ!」みたいな名目を持ち出されるわけですから厄介です。
場合によってはご神木を御所の門前に放置して「神意が目に入らぬか!」みたいな態度を取ることもありました。
一応、ご神木を持ち出すにあたって儀式をするのですが、「そんだけ大事に扱うものなのに、屋外に放置するのはいいんかい!」とツッコミたくなりますね。
言わずもがな、朝廷の政務や行事のほとんどは藤原氏系の家によって成り立っています。
彼らが出てこなければどちらも滞り、世の中が立ち行かなくなってしまうわけで……だからこそ、強訴は朝廷にとって脅威でした。
このときもいろいろな人が頭を抱えていたと思われますが、緊迫した状況の中で、義満はどうしたか? というと……。
「あ、ウチは源氏なんで^^」(※イメージです)
という理由で、堂々と出仕を続けたのだそうです。
確かにその通りなんですけど、面の皮と度胸が揃ってないとこういうことはできないですよね。
ちなみに、源氏は基本的に八幡神(誉田別命=応神天皇=八幡大菩薩)を守護神としています。そりゃ関係ないわー。
ちなみに源氏と八幡神に関する出来事としては、鶴岡八幡宮で源実朝が暗殺されたり、足利義詮が八幡宮へ「死ぬまで兄弟で互いに守り合うことを誓います」という願文を収めたのに早くも息子たちの代で台無しになった……といった感じで、「別の神様を信じたほうが良くない?」とツッコミたくなるような事実があります。
ついでにいうと足利尊氏は清水寺へ「直義にこの世の栄誉を全てお与えください」という願文を収めたにもかかわらず、観応の擾乱で台無しになって(して?)います。
閑話休題。
義満はさらに、強訴のせいで滞っていた歌会始(うたかいはじめ)などの行事を大々的に復活させ、逆に興福寺の宗徒を威圧しました。
「オメーらの脅迫なんざ屁でもないわ! 言いたいことがあるならもっとはっきり言ってこいや!」という感じでしょうか。
イヤミなんですが、明るいというか、小気味いいというか。
振り回される周りの人々は実に気の毒ながら、後世から見ると痛快で面白いのが義満という人なんですよね。
寺とも対話を進めてバランス重視の政策
足利義満の精神攻撃は興福寺に大きな打撃を与え、以降、強訴をしても京都市内までは入ってこられなくなりました。
とはいえ、義満は「ざまあ笑」では済ませず、興福寺だけでなく延暦寺にも直接対話をするシステムを設けたり、寺領確保や仏事再興などにも務めてバランスを取りました。
締めるべきところは締めた、という感じですね。
その翌年からは、幕府や守護大名に関するトラブルが増えてきます。
かつての重鎮・斯波義将が管領・細川頼之の罷免を求めてきた【康暦の政変】では、康暦元年(1379年)閏4月に頼之をクビにして、管領の座を義将に入れ替えました。
しかし、翌年に頼之は赦免され、幕政に復帰。
上記の強訴への対応と併せて考えてみると、
「義満は、頭に血が上っている相手をいなすのが非常にうまかった」
ような印象を受けます。
立場からすれば、断固として立ち向かうこともできただろうでしょうけれど、それで失うものの多さや重さを意識していたんじゃないか、と思えます。
武家の知恵と政治家としての打算がうまく働いているといった感じでしょうか。
そんなこんなで京都が落ち着いたため、朝廷でも義満を高く評価しました。
従一位という高位を与えられた後、翌永徳元年(1381年)3月には、後円融天皇を自宅である室町第でおもてなし。
征夷大将軍が現職の天皇をもてなした……ということができたのは、義満くらいのものでしょう。
平清盛が似たようなことをやっていますが、彼は将軍ではありませんし、迎えた場所も本宅ではありませんし。
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天皇をおもてなしした直後の6月には、内大臣の官職も受けました。
同時期に、義満は公家式の花押を使うようになり、どんどん朝廷に食い込んでいきます。
そして左大臣を受けた後は「准三后(じゅさんごう)」という、太皇太后・皇太后・皇后に準ずる地位まで与えられるのです。
これには、当時宮廷で起きた事件も影響していました。
後円融上皇の上臈局厳子と義満の密通が疑われ、上皇自ら厳子を刀の峰でぶん殴りまくるという、実に荒っぽい話です。
厳子が父の家へ退出したとき、相当な怪我を負っていたらしく、義満が医師を手配しています。
義満は上皇に「密通などしていません」と弁明しましたが、なかなか怒りは解けませんでした。
しかしこれは上皇という存在の権威を自ら貶めたことにもなります。
それでいて義満は上皇に礼儀を尽くしたので、どうにか威厳を保てている状態でした。
それを悟った後円融上皇は、その借りを返すために准三后の地位を与えたのです。
上皇がカッコ悪くて厳子が可哀想過ぎる経緯ですが、義満としては棚からぼたもちみたいなものですね。
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