醍醐の花見

醍醐寺の桜

豊臣家 豊臣兄弟

秀吉主催・醍醐の花見から振り返る〜みんな大好きお花見はいつから?

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信長は花見あまりせず

秀吉がやってるなら、織田信長も……。

と思いたいところですが、戦ばかりでそれどころじゃなかったからなのか、花見をやっても規模が小さかったのか、特にそういう記録は残っていないようです。

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相撲大会の記録は頻繁にあるんですけどね。

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現在、清洲城や名古屋城など信長ゆかりの地では桜の時期にイベントをやっているようなのですが、その桜がいつ植えられたものなのかは調べてみてもよくわかりませんでしたスイマセン。

ソメイヨシノだったら確実に江戸時代以降なんですけども、写真だけだと素人目には判別不能です。

秀吉は醍醐の花見の前にも吉野で大規模な花見をやっていますので、陰に隠れてしまったのかもしれません。

 


家康は駿府にて

その代わり(?)、徳川家康が大御所になってから花見をしたという記録が残っています。意外ですね。

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時期はハッキリしないのですが、駿府で家臣を引き連れて盛大な花見をしたそうで、これを元にした静岡まつりというお祭りが毎年4月の第一金曜~日曜に行われているとか。

大名行列を再現しているそうなので、かなり大規模にやってるんでしょうね。

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時代が下りまして、これまた意外なことに倹約家の米将軍こと徳川吉宗が庶民の花見を奨励していました。

なぜかというと、贅沢を取り締まったため庶民の娯楽が極端に限られてしまったので、あまり金がかからず皆共通で楽しめるものとして勧めたのです。

やっぱり金か……と思いきや、当時の江戸には上野の寛永寺くらいしか桜の名所がなかったこと、江戸郊外の鷹狩り場周辺を花見のできる場所にして経済を活性化させるためという目的が……ってやっぱり金でした。

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浅草や飛鳥山公園(東京都北区)の桜はこのとき吉宗が植えさせたもので、整備が終わった際は吉宗自ら出向いてPRしたとか。

飛鳥山公園の桜

吉宗の時代は財政問題の完全解決には至らなかったものの、庶民の怒りがあまり幕府中枢に行かなかったのはこういうこともしてたからかもしれませんね。

 


明治以降は名木も切り倒されて

各時代を通して貴族や武士の屋敷には好んで桜が植えられていました。

しかし、明治維新の際大名屋敷の接収その他によって、名木とされていた桜も切り倒されてしまったのだとか……。

「西洋に追いつけ追い越せ」の弊害がこんなところにもあったんですね。

上記のように、江戸時代まではある程度花見に関する逸話が伝わっているにもかかわらず、明治以降は極端に減ってしまうのはこのせいなのでしょう。

その流れで、戦中に日本固有の桜が何種類も絶滅してしまったという話もあります。残念なことです。

それでも全国各地に桜の名所はありますし、今ではアメリカやヨーロッパでも桜の美しさが認められ、好まれるようになってきたのですから、これからはきっとまた大切にされていくでしょうね。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
千本ゑんま堂引接寺(→link
静岡まつり(→link
醍醐の花見/wikipedia

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