醍醐の花見

醍醐寺の桜

豊臣家

秀吉主催・醍醐の花見から振り返る〜みんな大好きお花見はいつから?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
醍醐の花見
をクリックお願いします。

 

信長は花見あまりせず

秀吉がやってるなら、織田信長も……。

と思いたいところですが、戦ばかりでそれどころじゃなかったからなのか、花見をやっても規模が小さかったのか、特にそういう記録は残っていないようです。

織田信長
史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

続きを見る

相撲大会の記録は頻繁にあるんですけどね。

相撲好きの信長
日本史上No.1の相撲好きは信長!趣味が高じたイベントに参加者1500人

続きを見る

現在、清洲城や名古屋城など信長ゆかりの地では桜の時期にイベントをやっているようなのですが、その桜がいつ植えられたものなのかは調べてみてもよくわかりませんでしたスイマセン。

ソメイヨシノだったら確実に江戸時代以降なんですけども、写真だけだと素人目には判別不能です。

秀吉は醍醐の花見の前にも吉野で大規模な花見をやっていますので、陰に隠れてしまったのかもしれません。

 

家康は駿府にて

その代わり(?)、徳川家康が大御所になってから花見をしたという記録が残っています。意外ですね。

徳川家康
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年

続きを見る

時期はハッキリしないのですが、駿府で家臣を引き連れて盛大な花見をしたそうで、これを元にした静岡まつりというお祭りが毎年4月の第一金曜~日曜に行われているとか。

大名行列を再現しているそうなので、かなり大規模にやってるんでしょうね。

参勤交代と大名行列
参勤交代と大名行列の素朴なギモン~期間は?妻子は?経済的負担は?

続きを見る

時代が下りまして、これまた意外なことに倹約家の米将軍こと徳川吉宗が庶民の花見を奨励していました。

なぜかというと、贅沢を取り締まったため庶民の娯楽が極端に限られてしまったので、あまり金がかからず皆共通で楽しめるものとして勧めたのです。

やっぱり金か……と思いきや、当時の江戸には上野の寛永寺くらいしか桜の名所がなかったこと、江戸郊外の鷹狩り場周辺を花見のできる場所にして経済を活性化させるためという目的が……ってやっぱり金でした。

鷹狩
信長も家康も熱中した鷹狩の歴史~日本最古の記録は仁徳天皇時代なり

続きを見る

浅草や飛鳥山公園(東京都北区)の桜はこのとき吉宗が植えさせたもので、整備が終わった際は吉宗自ら出向いてPRしたとか。

飛鳥山公園の桜

吉宗の時代は財政問題の完全解決には至らなかったものの、庶民の怒りがあまり幕府中枢に行かなかったのはこういうこともしてたからかもしれませんね。

 

明治以降は名木も切り倒されて

各時代を通して貴族や武士の屋敷には好んで桜が植えられていました。

しかし、明治維新の際大名屋敷の接収その他によって、名木とされていた桜も切り倒されてしまったのだとか……。

「西洋に追いつけ追い越せ」の弊害がこんなところにもあったんですね。

上記のように、江戸時代まではある程度花見に関する逸話が伝わっているにもかかわらず、明治以降は極端に減ってしまうのはこのせいなのでしょう。

その流れで、戦中に日本固有の桜が何種類も絶滅してしまったという話もあります。残念なことです。

それでも全国各地に桜の名所はありますし、今ではアメリカやヨーロッパでも桜の美しさが認められ、好まれるようになってきたのですから、これからはきっとまた大切にされていくでしょうね。

あわせて読みたい関連記事

豊臣秀吉
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か?62年の生涯まとめ

続きを見る

前田利家
前田利家~槍の又左62年の生涯~信長に追放されてもド派手に復活!

続きを見る

秀吉主催の北野大茶会!人がサッパリ集まらずわずか一日で終了す

続きを見る

コメントはFacebookへ

秀吉の正妻ねね高台院
秀吉の妻ねね(寧々 北政所 高台院)女癖の悪い夫をどう操作した?

続きを見る

足利義満
日本国王の称号を持つ足利義満~室町幕府・三代将軍51年の生涯まとめ

続きを見る

織田信長
史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
千本ゑんま堂引接寺(→link
静岡まつり(→link
醍醐の花見/wikipedia

TOPページへ

 



-豊臣家
-

×