ご存知、徳川家康のもとで大活躍をした四名の有名武将で、
などなど、いずれも戦国史で存在感を放っている方たちです。
今回、注目したいのはもう一人の四天王・榊原康政。
四人の中では地味な存在ながら、実際は「秀吉に10万石の懸賞首をかけられた」なんて逸話もあったりします。
では一体どんな人物だったのか?
今回は、慶長11年(1606年)5月14日が命日である榊原康政の生涯にスポットを当ててみましょう。

榊原康政/wikipediaより引用
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榊原康政は陪臣の家系だった
榊原康政は天文17年(1548年)、酒井忠尚の家臣として、三河上野城(現・愛知県豊田市上郷護国神社)に生まれました。
酒井忠尚は、家康の父・松平広忠の家臣。
つまり康政は当初、陪臣(家臣の家臣)だったんですね。
かように生まれた身分は重くなかったものの、小さい頃から勉学を好んで書にも励んだとされます。
天才肌というよりコツコツ努力を重ねるタイプだったのでしょうか。
そして「書が得意」という点は、後に意外なところで力を発揮することになりますので後述させていただきます。
年齢的には、家康の6歳下で、同じ四天王の本多忠勝とは同い年。

徳川家康/wikipediaより引用
ついでに他の四天王を見てみますと、酒井忠次が康政の21歳上で、井伊直政が13歳下です。並べてみましょう。
酒井忠次(21歳上)
榊原康政・本多忠勝(同年)
井伊直政(13歳下)
ご覧の通り、徳川四天王の中だけでも、親子や祖父・孫のような年齢差があるんですね。徳川家臣団の層の厚さがうかがえます。
初陣は三河一向一揆
榊原康政の初陣は、13歳のときに起きた【三河一向一揆】でした。
大河ドラマ『どうする家康』でも描かれましたね。

三河一向一揆を描いた浮世絵(絵・月岡芳年)/wikipediaより引用
このとき康政は家康の小姓として参戦。
元の主だった酒井忠尚は、家康と対立する一揆側にいたとされています。
もし家康の小姓になっていなければ、康政も忠尚の配下として一揆方として参戦していたのかもしれません。
その場合、徳川四天王に名を連ねることはなかったかも?
一揆の戦功によって家康から「康」の字を貰ったともされますが、元服は若干遅く、一揆から5年ほどが経った永禄九年(1566年)のことでした。
康政は兄・榊原清政に代わって榊原家を継いでいるので、それに関する何らかのトラブルがあったのかもしれません。
詳細は不明ですが、後に康政は幾度か兄を見舞っておりますので、健康上の可能性もありましょうか。
若き頃から家康と苦楽を共にしてきた
元服後の榊原康政は、同年の本多忠勝と共に家康の旗本先手役という役を任されました。
護衛と先陣の両方を担う、非常に重要な役目です。
忠勝や康政、そして井伊直政が家康の「子飼い」とも呼ばれるのは、こうした役目も担ったからこそでしょう。

本多忠勝/wikipediaより引用
酒井忠次だけは家康より年上なので、少し性質が異なりますが、いずれにせよ徳川四天王は「家康が若い頃から苦楽をともにしてきた仲」の人物であるということになります。
忠次が「康政と直政のケンカをなだめた」なんて話もありますので、年長の忠次が他の三人の仲立ちになるということも、たびたびあったかもしれませんね。
元亀元年(1570年)6月28日――織田信長の同盟者として徳川軍も参加した【姉川の戦い】では、先陣が酒井忠次隊、康政は二番手として奮戦。
その勢いがすさまじく、忠次隊の面々も「先に手柄を挙げられてたまるか!」と、大いに士気を上げたという話もあります。
他にも家康の重要イベントである
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といった主要な出来事にも深く関わっております。
三方ヶ原の戦いでは、あえて浜松城の手前で止まり、
「武田軍は勝ちに勝って、油断しているに違いない。夜に奇襲を仕掛ければ、これ以上の追撃は防げる」
と冷静に判断。

ライトアップされた浜松城
昼のうちに浜松城へ入れなかった兵を集めて夜を待ち、勢いに乗った武田軍を奇襲しました。
この作戦は見事に当たり、武田軍を大混乱させています。
勇猛果敢かつ冷静沈着といった感じで、実にカッコイイですね。
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