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【酒井忠世】
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朝廷・幕府がギクシャク 最悪のタイミングで火事騒動が
こうして幕府の中でも指折りの重鎮になった忠世。
大坂夏の陣が終わり、父・重忠の領地を受け継ぎ、さらに家光付きになり……と、次代までの活躍を期待されました。
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しかし、晩年に差し掛かる頃、思わぬ失敗をしてしまいます。
忠世は寛永九年(1632年)5月から「西の丸留守居」という役職に任じられていました。
文字通り、江戸城の西の丸を管理する役目で、将軍の後継者や、前将軍の正室・側室などが住む場所であり、現在では皇居のある位置にあたります。
それだけにプレッシャーも大きく、任じられて二ヶ月後に中風で倒れたこともありました。
そのときは家光から養生するよう命じられ、無事復帰したのですが……。
寛永十一年(1634年)に、家光が紫衣事件(エライお坊さんの扱いがきっかけで幕府と朝廷が対立した事件)などによって悪化していた朝幕関係改善のため、上洛して留守にしている間に、西の丸で火事が起きてしまったのです。
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忠世の忠勤に対する家光のご褒美かもしれない
忠世はこの責任を問われ、家光の命により寛永寺で謹慎となりました。
当然、政治の場からも失脚します。
幸い、徳川御三家などからの赦免要請があったため、年内には許されました。
寛永十二年(1635年)2月には家光に拝謁、5月に西の丸に復職されますが、老中職には戻れず仕舞い。
このころ忠世は既に62歳なので、
「復職はさせてやってもいいが、老中の職務はキツいだろう」
という理由があったのかもしれませんね。
家光はああ見えて老人には優しいほうですし、忠世の屋敷にも御成したことがありますから、政治的なこと以外もいろいろ話していたでしょう。
そして一年後、忠世は64歳で亡くなりました。
最後の一年間は、家光から忠世の忠勤に対する有給休暇のようなものだった……というのは、ちょっと綺麗過ぎる想像ですかね。
厳しい武家の世界とはいえ、そういうあったかい話があってもいいんじゃないかと思うのです。
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長月 七紀・記
【参考】
国士大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(→amazon)
酒井忠世/Wikipedia
雅楽寮/Wikipedia