日本では三つの武家政権(=幕府)が開かれ、計39名の将軍が登場しました。
それが興味深い事に
初代
二代目
三代目
の征夷大将軍には奇妙な共通点があると思いませんか。
初代は、なんせ幕府を開いた人だから存在感が大きい。源頼朝、足利尊氏、そして徳川家康といえば泣く子も黙る武士の代表的存在でありましょう。
三代目もやっぱり目立つ方たちであり、金閣寺の足利義満や、何かとお騒がせな徳川家光、甥っ子(公暁)に暗殺された源実朝など、なかなか印象深いキャラクターが並びます。
問題は二代目です。
失礼を承知で申し上げれば“地味”。
【関ヶ原の戦い】に遅刻したことで知られる徳川秀忠は、割とスンナリ出てくるかもしれませんが、
あたりを即答できる方は、中々の歴史好きな方でありましょう。
源頼家は「男性の大事な急所をとられて殺される」なんて記録が『愚管抄』に残されるほど強烈なエピソードがあるんですけどね。
※以下は源頼家の生涯まとめ記事となります
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源頼家はなぜ北条に暗殺された? 風呂場で急所を斬られた頼朝の嫡男
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本稿では、寛永9年(1632年)1月24日が命日となる、徳川秀忠の生涯に注目してみたいと思います。
言わずもがな江戸幕府の二代目将軍ですね。
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徳川秀忠の生年に信康が自害していた
徳川秀忠は天正7年(1579年)4月7日、徳川家康の三男として生まれました。
母は西郷局(さいごうのつぼね)。
彼女は東三河の有力一族であった西郷氏の出身で、その名から「お愛の方」とも呼ばれたりします。
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於愛の方(西郷局)をなぜ家康は側室にした?どうする家康広瀬アリス
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問題は、秀忠が生まれた天正7年(1579年)という年でしょう。
実は同年9月の家康は、長男の松平信康がトラブルに見舞われ、自害へと追い込まれているのです。
事件の詳細は以下の記事にお譲りするとして、
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家康の長男・松平信康はなぜ自害へ追い込まれた?謎多き諸説を考察
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ここで注目しておきたいのが後継者であります。
このとき家康の年齢は、数えで37才。
信玄亡き後とはいえ、強大な武田家としのぎを削る日々であり、万が一のことを考えると、一刻でも早く跡取りを決めておきたい状況です。
そこで話題となるのが、他の兄弟ではなく秀忠が徳川家の跡継ぎに選ばれた理由です。
家康の息子リスト~長男から十男まで
数ある兄弟の中から、なぜ徳川秀忠が二代目将軍に選ばれたか?
というと、どれだけ家康の跡取り候補がいたのか、気になるところではあります。
ざっと男児だけ見ておきましょう。
長男:松平信康(1559)
次男:結城秀康(1574)
三男:徳川秀忠(1579)
四男:松平忠吉(1580)
五男:武田信吉(1583)
六男:松平忠輝(1592)
七男:松平松千代(1593)
八男:松平仙千代(1595)
九男:徳川義直(1601)
十男:徳川頼宣(1603)
(カッコ)内は生年です。
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20人以上もいた徳川家康の妻・側室ってどんなメンツだった?
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前述の通り長男・信康は既に亡くなっており、秀忠の他に候補者がいるとすれば五男の武田信吉ぐらいまででしょうか。
ではこの中で実際に将軍候補になり得たのは誰か?
そこで注目される逸話があります。
ざっくりと物語風に語りますので、ご承知おきください。
慶長5年(1600年)9月、徳川家康は腹心たちに問うた。
「ワシの次は、誰に天下国家を任せたらよいか? おのおの忌憚なく述べよ」
そこで本多正信が
「信康様亡き後、知略武勇を兼ね備えた三河守(結城秀康)様がよろしいかと存じます」
と答えると、次に続いたのが井伊直政。
「松平忠吉様こそ然るべし」
そして徳川秀忠を推挙したのが大久保忠隣であった。
「国が治まった今こそ文徳が必要。中納言(秀忠)様こそ相応しき御方」
家康は後日、「忠隣こそ我が意を得たり」と話し、秀忠に決めた。
この話は江戸幕府の正史とされる『御実紀(ごじっき)』(通称・徳川実紀)に掲載されたもので、なんだか、いかにも創作っぽい雰囲気ですよね。
しかし、跡継ぎが秀忠だと決まるのは、さほど難しい話でも無かったようです。なぜなら……。
【次男】結城秀康(1574)
→母の身分が低く(正室・築山殿の侍女だった)結城家へ
【三男】徳川秀忠(1579)
→家康の後継者
【四男】松平忠吉(1580)
→母は秀忠と同じだが、松平家へ
【五男】武田信吉(1583)
→母が武田家臣・秋山虎康の娘で、武田家の家名を継ぐ
というように、同世代の兄弟の中では、ほとんど最初から秀忠が嫡男の既定路線でした。
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例えば天正18年(1590年)に徳川家から豊臣秀吉の下へ差し出された人質にも秀忠が選ばれ、秀吉から偏諱を受けているほどです。
官位も秀忠が最も高く、六男の松平忠輝(1592年生まれ)以降の考慮は不要でしょう。
でも不思議ではありませんか?
最初から徳川秀忠と決まっているなら、そもそも跡継ぎ問題など話題にはならないはず。
逆に言えば、徳川秀忠を二代目にするには何かと不安があったから、わざわざ『御実紀(ごじっき)』に、「忠隣こそ我が意を得たりと家康が言った」なんてエピソードを盛り込んだのでしょう。
要は必要以上に強調しているんですね。
ではその不安な「何か」とは?
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