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【林羅山】
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新進気鋭の儒学者・林羅山
天正11年(1583年)、京都四条新町の商家である林家に、一人の男児が生まれました。
元は加賀国郷士だったとも伝わる林家。
生まれた男児は病弱であり、それもあってか、日がな一日、書物を読んでいました。
幼い頃より秀才として知られ、文禄4年(1595年)からは京都・建仁寺で仏教を学びます。
後の業績を踏まえると、なぜこの国に生まれたのか?と嘆いても不思議はありません。
儒教の本場である中国や朝鮮なら、秀才は科挙に合格することで、大いなる出世が望めました。
出家せず実家に戻った彼は、ますます儒教朱子学にのめり込んでゆきます。
そして周囲に儒学講義をするようになりました。
すると慶長9年(1604年)、明経博士である舟橋秀賢(ふなはしひでかた)により、彼は訴えられてしまいます。
勅許なしで儒学講義とはけしからん!という罪状。
訴えを受け取った家康は思わず苦笑してしまいます。
「学問とは、競い合って道理が正しいと示してこそであろう。どんな身分だろうと、学ぶというのは結構なことでは?」
22歳の若者相手に大人気ない。家康はそう思ったのでしょうか。
このころ彼は、藤原惺窩のもとで学んでいました。
若いのに突出した理解力である彼に、惺窩は驚き、慶長10年(1605年)に家康へその名を勧めます。惺窩自身が仕官する代わりに、どこか野心家である弟子を推挙したわけです。
「おお、あの若者か……」
家康の中で、新進気鋭の儒者である林羅山の名が、有為の人材として浮上した瞬間でした。
駿府の書庫に潜む臥龍 方広寺鐘銘事件にて飛躍す
慶長12年(1607年)、徳川家康は林羅山を伴って駿府城へ向かいました。
そしてこう告げます。
「剃髪せよ」
剃髪というのは、なかなかの試練でした。
羅山は儒教を重んじていて、儒教『孝経』にはこうあります。
身体髪膚、これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。
仏僧でもなければ、頭を剃るということはありえない。親不孝の象徴というわけです。
家康も、それをわかっていて羅山を試したのか。
羅山は剃髪し、道春と名乗ります(本稿では羅山で統一)。
親孝行よりも、忠を選んだとも言えるかもしれません。
家康に文書管理の仕事を任された羅山は、しばらく職務をこなしていると、思わぬ出世のチャンスが訪れます。
秦と敵対していた劉邦に対し、酈食其は「自分の知識こそ事の勝敗を決する」と示し、出世を遂げました。
駿府の家康にとって、大坂城にいる淀殿と秀頼親子は潜在的な敵。果たして羅山は?
慶長19年(1614年)、世に知られる【方広寺鐘銘事件】が起こります。
秀吉の始めた方広寺の大仏殿造営は、京都地震や火災により頓挫していました。
それがようやく終わったかと思いきや、鐘銘文が問題視されます。
家康とそのブレーンたちに問題の箇所を指摘したのが羅山でした。
国家安康→家康の諱の間に一字入れて、わざと切っている
君臣豊楽→豊臣を君主として楽しむと読める
難癖をつけているようですが、実際に銘文を考えた文英清韓が「敢えて書いた」と語っている。
飛び抜けた秀才であり、家康にとって“歩く辞書”のような存在である林羅山からすれば、難なく解ける謎解きでした。
結果、この事件をきっかけに、家康は大坂討伐を終え、羅山は名声を確たるものとしました。
フィクション作品において、林羅山はこの事件での出番が多い。
【大坂の陣】には欠かせない人物です。
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