林羅山

林羅山/wikipediaより引用

徳川家

林羅山は家康と江戸幕府に何をもたらした? 天才儒学者74年の生涯

大河ドラマ『どうする家康』で笑い飯・哲夫さんが演じた林羅山とは一体どんな人物だったのか?

劇中の最終盤で一瞬登場しただけで、何がなんだかサッパリわからなかった、という方は少なくないでしょう。

歴史の教科書にも登場するこの林羅山、実は「国家安康 君臣豊楽」で知られる方広寺鐘銘事件に関わるだけでなく、江戸時代から現代日本人にまで強い影響を与えているとも言えます。

徳川家康が重んじ、日本に広く浸透させた【朱子学】の儒学者だったからです。

戦乱の世で荒れ果てた人心を落ち着かせるにはどうすべきか?

日本人の模範的な姿とはどうあるべきか?

明暦3年(1657年)1月23日はその命日。

当時の情勢を鑑みながら、才人として名高い林羅山の生涯を振り返ってみましょう。

林羅山/wikipediaより引用

 


肥前名護屋で藤原惺窩と出会う

林羅山と徳川家康の関係を語る前に避けて通れない人物がいます。

藤原惺窩(せいか)です。

秀吉の無謀な野心が起こした【文禄・慶長の役】は、豊臣政権に大ダメージを与えるだけでなく、家康による天下への道のりも示してしまいました。

この惺窩との出会いを提供してしまったのです。

当時、小早川秀秋の御伽衆(おとぎしゅう)であった惺窩。

まだ若く、ヤンチャな一面もあった秀秋でさえ、その教えには素直に従うほどだったと言います。

当時の日本で、最高の知性を持つのは禅僧たちですが、その頂点にいて最新鋭の漢籍を学んでいた(京都)五山の僧ですら、惺窩には圧倒されました。

そんな惺窩は、秀吉の無謀な侵攻に、呆れ果てていたことでしょう。

儒教を熱心に学んでいた彼は、朝鮮の儒学者・姜沆(カン・ハン / きょうこう)と交流しながら、明への留学を目指したこともあります。

いわば当時の天才秀才の類ですから、学問を好む家康が『会ってみたい』と考えるのは自然なこと。

かくして二人は名護屋で面会を果たします。

家康52歳、惺窩は33歳でした。

藤原惺窩/wikipediaより引用

 


天下人は儒学者を尊ぶ

藤原惺窩は、二人の天下人――つまり豊臣秀吉と徳川家康に儒教を教えました。

このうち、惺窩に入れ込んだのは、もちろん家康。

入れ込むだけに留まらず、次第に「この大儒学者をなんとしても我が陣営に加えたい」と考えるようになります。

若きころ、太原雪斎のもとで漢籍を読み漁った家康ですから、その脳裏には数多の故事があるはずで、ここで注目してみたいのは劉邦――。

始皇帝の秦が崩壊してゆく中、ライバルである項羽を倒した劉邦は、日頃からゴロツキ仲間と付き合うような、行儀の悪い人物だった。

諸子百家と呼ばれる思想家を嫌い、とりわけ儒家を敵視。

お行儀よくしろってか! と鼻で笑い、儒者の冠に小便を引っ掛けたことすらある。

そんな劉邦のもとに、酈食其(れきいき)という儒者が目通りする。

劉邦は女に脚を洗わせながら、ぞんざいな態度で面会。

「ジジイよぉ〜! 何しにきたワケ?」

「年長者にそういう態度はよくありませんねぇ」

酈食其は続けて「自分ならば秦軍を降伏させられる」と売り込んできた。

そして酈食其が実際に素晴らしい働きを見せると、さすがの劉邦も目覚める。

“お行儀よく”ってのは、荒くれ者の更生に効果アリだな!

劉邦がそう悟り、儒教は漢代に浸透した。

簡潔にまとめれば

「儒教を学べば、荒くれ者も文明化される」

ということで、日本でも家康より先にそれを実践した人物がいます。

源頼朝です。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれたように、頼朝が流された坂東の武士たちは、忠義も何もない状態でした。

そこで頼朝は、彼らに仏教や儒教倫理を教えながら「どうにか文明化しよう」と考えます。

いわば

「劉邦→頼朝→家康へ」

と伝わるわけですが、現実的には非常な困難を伴います。

頼朝の鎌倉時代から約400年――そのうち直近の約100年間は戦国時代が続き、人心の荒れ果てた日本に儒教を根付かせるのはラクではありません。

中国や朝鮮では、儒教教典の理解度をはかる【科挙】制度があり、官吏の登用にあたって儒教が身につきました。

一方で日本に、そんな機会はありません。

中世で儒教の担い手となったのは、仏典と共にその教養を入手できた禅僧です。

戦国大名の子息たちが禅僧に学んだのは、そうした最新知識を身につけるためでもあり、家康にとっての師匠が太原雪斎でした。

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劉邦と源頼朝にあやかりたい家康は、行動に移します。

江戸まで藤原惺窩を招き、『貞観政要』の講義を受けたのです。

『貞観政要』とは、北条政子が我が子の源頼家にも勧めたという帝王学の教科書。

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それをわざわざ惺窩に学ぶぐらいですから、自身のブレーンに加えることができたらどれほど心強いか――と、家康が考えるのは自然なことでしょう。

秀吉が亡くなった翌慶長4年(1599年)、家康は伏見の屋敷に惺窩を呼び出しました。

惺窩は家康の姿を見て、ジッと押し黙っています。

一体どうしたことか……?と教えを促す家康に、惺窩は返しました。

「それが師に教えを乞う者の姿でしょうか? あまりに礼を失していませんか?」

実はこのとき家康は、質素な平服を着用していました。

無礼だ、とする惺窩の指摘はご尤もで、反論の余地はありません。

京都に生まれ、誇り高い惺窩は、結局、家康に仕えることは拒み続けるのです。

ならば家康は諦めるしかないのか?というと、天下取り、天下泰平のためにも、それはできません。

そこで救いとなるのが林羅山でした。

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