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家康のもとで働き出した2人
二人は江戸城に招かれ、やがて給料をもらって家康の下で働くことになりました。
母国からやってきた人との間で通訳をしたり。
私的に交易をして儲けた分を献上したり。
世界情勢を語ったり。
家康だけでなく、徳川秀忠の代でも貴重な外交窓口として活躍していたようです。
イギリスとオランダは、それぞれ東インド会社を持っており、交易を巡って衝突することも珍しくありませんでしたから、当然アダムスたちも不仲かと思いきやそうでもありません。
アダムスの留守中にヤン・ヨーステンがイギリス商館と幕府の間を取り持ったこともありますし、逆にイギリス商館長からヤン・ヨーステンの妻子(日本人)に贈り物が届けられたことも記録されています。
まあまあ良い関係を築いていたようですね。
危険な航海を共に乗り切ったからか、両国ともプロテスタントだったからか、あるいは両方か。
ウィリアム・アダムズはその後、帰国を希望しましたが、家康からの許しが出ず、代わりに「三浦按針」という名前と領地をもらって引き続き日本で働きました。
なんだか織田信長に仕えた黒人侍・弥助も彷彿とさせますね。
しかし、家康が亡くなって徳川秀忠の時代になると「ヨーロッパに深入りするのはあんまり良くないんじゃない?なんかややこしいし」という風潮が少しずつ強まり、失意のうちに平戸で亡くなります。
帰国させなかったくせに、これは可哀想すぎる……。
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八重洲の地名由来←これはマジ
ヤン・ヨーステンはアダムスよりもう少し長生きしました。
しかし、幕府の外国に対する態度から「もうここでは穏やかに暮らせないかも」と考え、帰国を考えるようになります。
許可が下りないうちに航海に出て、途中、船ごと行方不明になっております。
インドネシアで何かしようとしていたようで、具体的なことはわかっていません。日本に戻る途中で船が座礁したとも言われているので、交易でしょうかね?
二人とも決して幸せな最期とは言えません。
ただ、彼らによって江戸幕府の目が海外に開かれたことは日本史に大きな影響を残したといっても過言ではないでしょう。
ヤン・ヨーステンの屋敷があった周辺は「八重洲」として都内の一等地になっていますし、アダムスの領地だった横須賀では彼を主役として大河ドラマの誘致を行っているなど、今も二人の名前は語り継がれています。
アダムズの屋敷も日本橋周辺だったそうですから、互いの家を訪ねることもあったでしょうね。
異国人の二人が袴姿で正座をし、日本酒を酌み交わす……なんて逆ハイカラな光景もあったのかもしれません。ちょっと和む。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
ヨーゼフ・クライナー/安藤勉『江戸・東京の中のドイツ (講談社学術文庫)』(→amazon)