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【松平広忠】
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ようやく松平家の内紛も終息
広忠一行は、まず吉良持広という人物を訪れ、続いて翌5年には遠江国に移り、潜伏生活を始めます。
同時に定吉は、広忠復権のため、駿河で強大な勢力を築いていた今川義元に助力を願いました。
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と、これがアッサリ成功。
広忠に強国・今川が味方についたということで、信定の配下から寝返る者が出現してきました。
一方、当時の信定は安城城に入り、岡崎城を清康の弟・松平信孝に任せるという体制での三河支配を進め、一時は松平広忠軍を追い返すなどの抵抗も見せます。
しかし、徐々に勢力を増していくのは広忠勢でした。
天文6年(1537年)、広忠軍は奮戦して信定・信孝親子の岡崎城を取り戻し、自軍への従属を確約。無事に岡崎城の帰還も行われ、同時に松平家の内紛も終息します。
本拠地に帰り、一家がまとまる――となれば次に思い浮かぶのは「躍進」の二文字、つまり他国への進出でしょう。
しかし彼らの隣国は、織田信秀や今川義元などがひしめく戦国猛者たちの激戦区。
広忠の岡崎帰還は「躍進」どころか「苦悩」のスタートとなったのです。
織田に城を奪われ今川とも敵対する苦難の日々
無事、岡崎への帰還を果たしたものの、未だ父の代ほどの力は取り戻せない広忠軍。散り散りになった家臣らも帰参しはじめ、勢力を回復しつつありました。
しかし、それと同時に家臣団の分裂が起きたり、織田信秀の侵攻を受けたりして、再び広忠は追い込まれていくことになります。
なお、広忠の後半生に関しては近年の研究とそれ以外での描き方が著しく異なるので、ここでは最新の学説に基づいた流れを採用します。
まず広忠は、信定派の家臣らを政権の中枢から排し、阿部定吉や大久保氏らを中心に運営しておりました。
この方針によって冷遇された信定派の信孝や酒井忠尚は反発し、後に大きな対立を生じさせます。
彼らがとくに腹に据えかねたのは広忠の外交でした。
広忠は対立を深める信秀への対策として三河・尾張の国境沿いで勢力を有していた水野忠政の娘・於大の方と結婚。
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天文11年(1542年)、於大の方の間に男児をもうけます。
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水野家との同盟関係はあっけなく崩壊
強国に挟まれた上に一族内で権力争い。
幼き頃の家康(竹千代)が行ったり来たりの苦難(人質生活)を強いられたのも、こうした背景があったからなんですね。
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不安定な統治基盤の松平にとって、近隣の水野家と結ばれた婚姻は、苦肉の策としか言いようがありません。
両家は協力していかねば勢力を保てないのです。
しかし、その大事な水野家で、翌天文12年に忠政が亡くなり、水野信元が後継者となると、松平との関係は一挙に崩壊してしまいます。
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信元が外交方針を転換して、広忠が敵対している織田信秀に従ってしまったのです。
広忠はやむなく水野氏との関係を解消し、於大の方を離縁。まだ幼い家康は、母と生き別れになりました。
さらに、信秀対策として戸田宗光と同盟を結んだところ、彼が今川氏と敵対していたために、広忠も今川氏との決別を余儀なくされます。
なんだか行き当りばったりですよね。そのため……。
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