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【松平広忠】
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四面楚歌からの竹千代人質
こうした一連の外交は家臣らの不興を買い、彼らは信秀に従う構えを見せるようになってしまいました。
今川・織田・反対派の家臣に敵対されるという四面楚歌の状況を作り出してしまった広忠は、信秀によって領国・三河への侵攻を受けます。
孤軍奮闘に近い状態であった広忠は、彼らの軍勢を押し返すことができません。
天文16年(1547年)には織田勢に安城城を占領されると、本拠である岡崎城をも失い、信秀への降伏を余儀なくされました。
この際に、我々もよく知るこんなエピソードがあります。
「今川氏に救援を求めたところ、息子・竹千代(家康)の身柄を要求された。広忠は泣く泣く手放したが、戸田氏の策略によって義元ではなく信秀のもとへ送り届けられた」
それが近年では「略奪事件はなく、信秀に敗れて竹千代(家康)が人質になっただけ」という説も唱えられ、通説の見直しが図られている段階です。
つまり竹千代人質の顛末は、戸田氏の強奪ではなく当初の予定通り織田へ送られた――という考え方ですね。
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そもそも、従来の強奪説を採用すると、信秀による安城城奪取は天文9年(1540年)の出来事であり、さらに奪還後の岡崎城は広忠が死ぬまで落とされなかったとされてきました。
ちょっとややこしくなってしまいますが……。
ともかく新説を踏まえますと、天文16年(1547年)の段階で広忠は、織田軍の支配下だったと考えてよさそうです。
家臣にも離反者が多い状況を考えると、広忠の勢力回復はかなり厳しいものでした。
苦境に陥った今川に従属
しかし、ある大名の手助けで状況は変わります。
信秀が三河を手中に収めかかっている現状に危機感を抱いた今川義元。
義元は三河国内における影響力で信秀を下回っており、逆転の一手として信秀の侵攻に苦しむ広忠を見出しました。
広忠にとっても、勢力が衰えていく中で今川氏と結んでチャンスを見い出すというのは、極めて合理的な選択です。
「敵の敵は味方」という理論で両者は結託し、急接近していきました。
こうした状況において、天文17年(1548年)に織田vs今川の【小豆坂の戦い】が勃発。
今川・松平連合軍は織田方を打倒し、彼らを敗走へと追い込みます。
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今度は信秀が家臣団の統制に苦しむようになり、その勢いに陰りが生じます。
なお、小豆坂の戦いについては、天文11年(1542年)に【第一次小豆坂の戦い】があったというのが通説でしたが、今回は新たな学説を採用したために存在しなかったものとして扱っております。
話を戻しまして……。
暗殺~天文18年(1549年)
信秀の影響力が衰えると、彼らを背景として広忠に対峙していた家中の反乱分子たちが苦境に追い込まれることになりました。
広忠は弟・松平信孝を打倒し、今川の力を背景に国内の安定化に奔走します。
結果、信秀は影響力を失い、今川のもとで着々と国内統一を進めることができた広忠。苦難の末にようやくつかんだ光明でした。しかし……。
ようやく展望が開けた矢先の天文18年(1549年)のことです。
広忠は、家臣の岩松八弥なる人物に刺された傷がもとで24歳の生涯を終えています。
八弥は信秀の放った刺客だったともされますが、暗殺ではなく病死であったという説もあります。
大河ドラマ『麒麟がくる』では若き日の織田信長が刺客を放ったことになっていて、染谷将太さんの空恐ろしい演技が話題にもなりましたね。
いずれにせよ、我慢に我慢を重ねた末に見えた光明を掴み切ることができず、息子に夢を託すことに。
その息子・徳川家康については「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」という句がよく知られていますが、これは【広忠&家康の親子二代に渡る苦労】を評したものに見えてなりません。
なお、その後の家康はしばらく今川傘下で活動を続け、【桶狭間の戦い】で今川義元が討ち取られたのを機に岡崎城へ帰還。
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その後は織田信長と同盟を結び、じっくりと天下人への階段を上がっていくことになります。
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文:とーじん
【参考文献】
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
工藤寛正『徳川・松平一族の事典』(→amazon)
笠谷和比古『徳川家康:われ一人腹を切て、万民を助くべし』(→amazon)
柴裕之『徳川家康 : 境界の領主から天下人へ』(→amazon)