信長が織田家の家督を継いだとき、その支配地域が尾張の半分だったということは、戦国ファンにはおなじみかもしれません。
では、徳川家康はどうでしょうか?
一般的には、最初から三河の主だったと思われがちな家康。
実際は、今川義元が討死した後に独立大名としての道を歩み始めると、混沌とした状況に陥り、三河平定までに約6年もの月日を費やしているのです。
本来なら、大河ドラマ『どうする家康』でその辺の流れをジックリ鑑賞したかったところですが、瀬名との恋愛や氏真の嫉妬などが絡んで、なんだかよくわからない状況でした。
いったい史実の徳川家康は如何にして三河を平定したのか?
その足跡を振り返ってみましょう。
※本稿ではわかりやすさを重視して「徳川家康」表記で統一させていただきます
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桶狭間での予期せぬ今川大敗
徳川家康の三河平定は永禄3年(1560年)5月19日に起点があると言えるでしょう。
【桶狭間の戦い】です。
当時の家康は、三河の小国主というより有力国衆として今川の傘下に与していたような状況。
ゆえに大河ドラマ『どうする家康』第1回の放送でも今川義元の命により、大高城へ兵糧を運び入れる作戦を請け負っていました。
このとき家康や三河家臣団はどんな心境だったのか?
というと2022年大河ドラマ『麒麟がくる』の方がわかりやすいかもしれません。
彼ら徳川は、表向き今川の意向に従ってはいたものの、心底望んでいるわけではない。
今川方に急かされ、不満を示して拒否する場面もありました。
むろん事細かな心情まで史料に残されているわけではありませんが、史実では、今川義元が織田信長に討たれて今川軍が総崩れになると、家康は大高城で防戦しつつ、本拠の岡崎城へ向かっています。
今川から離れ、三河平定へ動き出す……のではなく、この段階ではまだ反今川を旗幟鮮明にはしていません。
『どうする家康』では、三河平定に乗り出す前の見どころとして、家康の正妻・瀬名(築山殿)が今川氏真の“夜伽役”とされかけるシーンがありました。
状況的にみて、あれはかなり強引なフィクションと考えられます。
義元を失ったばかりで家自体が揺らいでいる今川家で、その重臣の娘をぞんざいに扱っていいことなど何ひとつありません。
そもそもドラマでは家康と瀬名を恋愛結婚に仕立て、氏真が悔しがるようにしているところからして、不可解でした。
当時の氏真は、そんな色恋沙汰にかまけている場合ではありません。
では当時の今川家はどんな状況だったのか?
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煮えたぎる駿河と三河
偉大な父の死により、凡庸な息子が追い詰められてゆく――こう説明されがちな今川氏真ですが、そんな単純な話ではありません。
今川には東に同盟相手の北条がいます。
義元の母であり“女戦国大名”として名高い寿桂尼、その娘・瑞渓院(ずいけいいん)は北条氏康の正室。
瑞渓院と氏康の間に生まれた早川殿が、豪華な花嫁行列で氏真のもとに嫁いできていました。
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ゆえに、いざとなれば北条からの援軍を得られる。
そんな同盟だったはずですが、このとき北条領へ“越後の龍”こと上杉謙信が攻め込み、今川は東からの援軍が期待できなくなっていたのです。
まさに泣きっ面に蜂ともいえる状態で、氏真は綻びゆく家臣を繋ぎ止めるため必死にもがいており、そんな苦境の中で、有力傘下の徳川家康が離反するとなれば一大事です。
近隣の諸勢力は非常に複雑かつ不安定な状態に陥り、当初は、家康がどちらに転ぶかなど読めない状況。
だからこそ永禄3年(1560年)に家康は、母方の伯父である水野信元とも戦っています。
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『どうする家康』では寺島進さんが演じていた織田家傘下の武将です。
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