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【家康の三河平定】
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清洲同盟
結局、家康は今川に見切りをつけ、永禄4年(1561年)、信元の仲介を経て織田信長と和睦を締結。
俗に【清洲同盟】と呼ばれるもので、この結果を受け、家康・嫡男の松平信康と、信長の娘・五徳の婚姻が決まりました。
『どうする家康』では、信長がお市と家康の婚礼も考えていたとか、お市が家康に恋していたとか、そんなシーンもふんだんに描かれましたが、お市と家康は年齢が近いとは考えにくいです。
劇的な生涯ゆえ、織田家ではお市にスポットが当たりがちなだけで、信長には複数の妹がいます。
年齢を考えれば、別の妹と家康の婚礼を考えたほうが自然でしょう。
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今川から見て、曖昧だった家康の意向。
決定的に敵と見なしたのは、家康が今川の支城である牛久保城を攻めてからのことでした。
この城攻めで、三河の国衆たちも選択が迫られます。
今川か?
それとも徳川(松平)か?
こうして煮え立つ三河は、後に【三河忩劇】(みかわそうげき)と呼ばれるほどの争乱を迎えます。
築山殿とその子は、永禄5年(1562年)に、家康側が捕らえた鵜殿一族子息との交換で、奪還されていました。
事態は好転したかに見えますが、ここで思わぬ事態が起こります。
松平一族や家臣団が反逆したのです。
三河各地にあった本願寺系の寺院との対立が契機であり、いわゆる【三河一向一揆】と呼ばれる戦いです。
『どうする家康』では、本證寺側が年貢を納めないことを家康が問題視し、米を強奪したような描写でした。視聴者には、現代社会の宗教団体と重ねたようにも見えたかもしれません。
しかし、ことはそう単純でもありません。
信仰を基にした武装勢力であり、どこの大名もこうした宗教を取り込みつつ、自勢力の基盤としていました。
そうした一揆勢力に加えて、他の松平一族や地元国衆が蜂起して、三河は分裂の危機にさらされたのです。
しかし、反家康勢が頼りにしていたであろう今川氏真は、自国での争い【遠州忩劇(えんしゅうそうげき)】に追われ、家康を倒すための援軍が出せませんでした。
家康は、そんな状況にも恵まれ、苦戦しながらも敵をひとつずつ攻略してゆきながら、永禄7年(1564年)までにようやく一揆勢との和睦を成立させます。
和睦成立の際には、勢力を削ぐ条件が巧みに組み込まれ、家康は松平氏と三河を束ねるものとしての地位を確固たるものとしたのです。
遠州忩劇を抑えきれぬ氏真
荒れ狂う自領を抑え切った家康と、それができなかった氏真。
そんな対比がこの時代にあたります。
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三河同様、駿河も荒れ狂う状態であり、氏真は家臣と国衆離反に苦しんでいました。
『どうする家康』では渡部豪太さんが扮した飯尾連龍も今川に離反した勢力となります。
ドラマでは妻の田鶴が絡んですっかりメロドラマにされていましたが、戦国時代はそこまでウェットなわけでもありません。
城を枕に散った椿姫こと田鶴伝説も、後世の創作とされています。
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要するに、三河にせよ、駿河にせよ、勢力が荒れ果てて無茶苦茶であったということです。
そして戦国大名としての今川氏にとどめを刺したのは、甲斐の武田信玄でした。
上り調子である三河の松平と、荒れ果てる駿河の今川を見て、武田は【甲駿同盟】を破棄して家康と結んだのです。
永禄11年(1568年)末、武田勢は駿河へ侵攻。
今川氏の家臣たちが次々に離反する中、忠義を尽くす朝比奈泰朝の掛川城へ氏真は逃れます。
妻である早川殿が、乗り物も用意できぬほど追い詰められての逃避行であり、氏真が駿河から落ち延びて、今川氏は滅んだのでした。
このとき激怒したのが、早川殿の父である北条氏康です。
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北条の援軍と武田が睨み合う中、氏真と早川殿は相模へ。
『どうする家康』では、家康と氏真の対決を重視し、北条はすっかり無視されていました。
そのため余計にわかりづらくなったのですが、氏真が戦国大名として滅亡する過程に、家康が独力で深く関与しているとも言えないのです。
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