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【結城秀康】
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名刀・石田正宗
秀康は、父寄りの立場になっていきます。
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三成が豊臣家臣たちのうち武断派と呼ばれる人々によって襲撃され、一時的に領地の佐和山へ身を引くことが決まると、家康によって秀康と堀尾吉晴が三成の護衛役を任されました。
佐和山まではついていかなかったようですが、三成は秀康の親切に感謝し、名工と名高い正宗の刀を贈っています。
この刀はその後”石田正宗”と呼ばれ、秀康の子孫である津山松平家に伝わり、今日まで現存。
先述の童子切と同様、石田正宗も東京国立博物館(トーハク)に収蔵されています。
2023年大河『どうする家康』関連の企画があれば、並んで展示されることもあるかもしれませんね。
ちなみに秀康は「御手杵(おてぎね)」という名の長大な槍を振るっていたとも伝えられています。
秀康の義父・結城晴朝が作らせ、秀康が受け継いだものです。
現物は昭和二十年(1945年)の東京大空襲で消失してしまいましたが、結城蔵美館にレプリカが常設展示されていますので、在りし日の姿に思いを馳せるのも一興かと。
家康の息子たちのうち、固有名のついた武器の逸話が比較的多いのも彼の特徴といえるかもしれません。
慶長出羽合戦
慶長五年(1600年)、上杉征伐へ向かう家康に従い、結城秀康も宇都宮へ。
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石田三成が挙兵の報を受けとると、秀康は関東・東北の押さえとして残るよう、家康から命じられます。
そして最上義光や伊達政宗など、徳川方についた東北の大名が秀康の指揮下に入りました。
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といっても、戦の大まかな方針については家康から最上軍などに指示が出されていたようですので、秀康はあくまで家康の代理として残ったというカタチ。
秀康にしても、戦の経験が豊富ではありませんので、当然といえば当然でしょう。
仮に”家康の息子だから”というだけの理由で、東北の地を知り尽くしている地元の大名たちを差し置き、戦術に口を出してしまったら、最悪、軍が分裂してしまうかもしれません。
口を出さないことが正解――というのは、かなり地味ではありますが、秀康の賢明さが出たのでは?
他の逸話にしても、秀康は「俺が俺が」というタイプではなく、複雑な育ちもあって、控えめな振る舞いが多いように思えます。
ただし、天下人の一族として、その後は大盤振る舞いされます。
関ヶ原の後は、越前68万石の大名となり、さらには若狭・信濃の一部を受け、75万石という大身に。
結城氏の家臣の中には移転を拒否した者も多かったようですが、かえって家中の整理になったようです。
この後、秀康の周辺で「松平氏に戻るべき」という意見が強まったのも、その派生と見ていいでしょう。
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