結城秀康

結城秀康/wikipediaより引用

徳川家

家康の次男・結城秀康が不運にも将軍になれなかった理由とその生涯に注目

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正三位・権中納言

官位も順調に上がり、慶長十年(1605年)4月には正三位・権中納言に出世。

しかしほぼ同時期に体調を崩しがちになっていたようです。

同年7月には禁裏の増築「仙洞御所造営」の総奉行を務めていますが、9月に伏見城留守居を命じられたときにはこれを辞退しています。

続いて慶長十一年(1606年)1月には権中納言も辞職しており、結城秀康自身、先行きに不安を抱いていたのではないでしょうか。

残念ながら、その予感は的中してしまいます。

慶長十二年(1607年)3月、秀康は越前に帰国すると、閏4月8日に北庄城で亡くなってしますのです。

成人はしていても、まだ34歳という若さ。

訃報を受けた家康は、秀康の家老たちに対し「追腹を切ることは認めない」と伝えたそうです。

当時は主君が亡くなった場合、忠義の証として腹を切り、死出の旅の伴をするという習慣がありました。

しかし、この時代辺りから「優秀な家臣は次の世代のために残しておくべき」という考えが少しずつ広まっていきます。

おそらく家康も、後者の考えによってこのように命じたのでしょう。

結城家の所領は75万石という大きさになっていましたので、うまく経営していかないと

結城家取り潰し

浪人大量発生

治安悪化

幕府の評判悪化

戦国時代に逆戻り

なんてことも起きかねません。

この後、秀康の息子たちは松平氏に復し、色々と問題もありながらも、実に現在まで子孫が続いています。

結城家の家紋や祭祀は、秀康の五男・直基の系統が引き継いでいきました。

これは、松平氏を名乗ることで御家門(徳川宗家の親戚)として扱われるため、経済的な問題解決に繋げるという目的があったためです。

 

出雲の阿国を見て我が身を嘆く

最後にもうひとつ、秀康の逸話に注目しておきましょう。

秀忠が将軍を継いだ後の話です。

このころ秀康は伏見城代を務めており、ある日の宴に歌舞伎踊りの創始者で知られる”出雲の阿国”が呼ばれました。

秀康は阿国の芸を大いに褒め称え、こんな言葉で自身の立場を嘆いたとされます。

「あの女は無名の身から天下一と呼ばれるほどの者になったが、自分は天下人の兄なのに天下一の男にはなれなかった。無念なことだ」

確かに彼の生涯は、周りの都合に翻弄され続けており、そう思うのも無理はありません。

しかし、秀忠の男系の血が途絶えてしまったのに対し、秀康の家系は残りました。

血を残すことに価値を見出すのであれば、天下人・家康の血筋を残した秀康とその一族も、天下一と言って差し支えないのでは?

個人的にはそんな風に思っています。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の辞典』(→amazon
藤井讓治『徳川家康(人物叢書)』(→amazon
ほか

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