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【結城秀康】
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正三位・権中納言
官位も順調に上がり、慶長十年(1605年)4月には正三位・権中納言に出世。
しかしほぼ同時期に体調を崩しがちになっていたようです。
同年7月には禁裏の増築「仙洞御所造営」の総奉行を務めていますが、9月に伏見城留守居を命じられたときにはこれを辞退しています。
続いて慶長十一年(1606年)1月には権中納言も辞職しており、結城秀康自身、先行きに不安を抱いていたのではないでしょうか。
残念ながら、その予感は的中してしまいます。
慶長十二年(1607年)3月、秀康は越前に帰国すると、閏4月8日に北庄城で亡くなってしますのです。
成人はしていても、まだ34歳という若さ。
訃報を受けた家康は、秀康の家老たちに対し「追腹を切ることは認めない」と伝えたそうです。
当時は主君が亡くなった場合、忠義の証として腹を切り、死出の旅の伴をするという習慣がありました。
しかし、この時代辺りから「優秀な家臣は次の世代のために残しておくべき」という考えが少しずつ広まっていきます。
おそらく家康も、後者の考えによってこのように命じたのでしょう。
結城家の所領は75万石という大きさになっていましたので、うまく経営していかないと
結城家取り潰し
↓
浪人大量発生
↓
治安悪化
↓
幕府の評判悪化
↓
戦国時代に逆戻り
なんてことも起きかねません。
この後、秀康の息子たちは松平氏に復し、色々と問題もありながらも、実に現在まで子孫が続いています。
結城家の家紋や祭祀は、秀康の五男・直基の系統が引き継いでいきました。
これは、松平氏を名乗ることで御家門(徳川宗家の親戚)として扱われるため、経済的な問題解決に繋げるという目的があったためです。
出雲の阿国を見て我が身を嘆く
最後にもうひとつ、秀康の逸話に注目しておきましょう。
秀忠が将軍を継いだ後の話です。
このころ秀康は伏見城代を務めており、ある日の宴に歌舞伎踊りの創始者で知られる”出雲の阿国”が呼ばれました。
秀康は阿国の芸を大いに褒め称え、こんな言葉で自身の立場を嘆いたとされます。
「あの女は無名の身から天下一と呼ばれるほどの者になったが、自分は天下人の兄なのに天下一の男にはなれなかった。無念なことだ」
確かに彼の生涯は、周りの都合に翻弄され続けており、そう思うのも無理はありません。
しかし、秀忠の男系の血が途絶えてしまったのに対し、秀康の家系は残りました。
血を残すことに価値を見出すのであれば、天下人・家康の血筋を残した秀康とその一族も、天下一と言って差し支えないのでは?
個人的にはそんな風に思っています。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の辞典』(→amazon)
藤井讓治『徳川家康(人物叢書)』(→amazon)
ほか