「槍の◯◯」とか「鬼◯◯」とか。
いかにも強靭なイメージの言葉と繋げられますが、一風変わっているのが徳川家の「半蔵」でしょうか。
徳川関連で半蔵なんて言えば、そりゃもう真っ先に「伊賀の服部半蔵正成」が思い浮かびますが、実は家康の家臣にはもう一人の「半蔵」がいました。
元和6年(1620年)4月9日に亡くなった渡辺守綱です。
大河ドラマ『どうする家康』では木村昴さんが演じていた、アゴヒゲに特徴ある方ですね。
ドラマでは一向一揆の本拠地となった本證寺で女性に声をかける姿が目立つなど、どことなくチャラい雰囲気でしたが、史実ではどんな人物だったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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初陣は石瀬の合戦
渡辺守綱は、主君の徳川家康と同い年。
天文11年(1542年)生まれで、実は服部半蔵(服部正成)も同年になります。
ちなみに、家康は晩年まで頑健だったことで知られていますが、守綱はさらに丈夫で元和6年(1620年)まで長生きしています。
祖父の代から松平氏に仕えていて、守綱も16歳ころ、家康に仕えました。
初陣は永禄元年(1558年)【石瀬の合戦】です。
【石ヶ瀬川(いしがせがわ)の戦い】とも呼ばれ、当時松平元康だった家康が、伯父である水野信元とぶつかった戦いです。
水野信元は、家康の母・於大の方の兄であり、『どうする家康』では寺島進さんが演じていますね。
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このころ松平氏の領地は織田家と今川家の狭間でたびたび衝突があり、永禄三年(1560年)【桶狭間の戦い】で今川義元が討ち取られるまで、この川周辺でも散発的に合戦が続きました。
守綱にあだ名がついたのは、永禄五年(1561年)三河国八幡での戦によります。
このとき、先陣を務めていた酒井忠次が今川軍の将・板倉弾正に敗れて退却すると、守綱が殿(しんがり)を引き受け、一人で槍を振るって味方を逃したと伝わります。
そもそも殿というのは、軍が退却するとき最後尾で敵を迎撃して味方を安全に逃がす、という危険な役目ですから、この奮戦によって「槍半蔵」と讃えられるようになったというものです。
この逸話で守綱の忠義と武勇が察することができますが、その後、家康が重大危機を迎えた【三河一向一揆】では、敵方に回ることになります。
三河一向一揆
永禄6年(1563年)から翌年にかけて勃発した三河一向一揆。
字面からして宗教的な要素が漂っています。
実際、その発端は一向宗本證寺に対し「不入の権」を徳川が無視したため、寺側が蜂起したとされます。
ただし、同時期には、反家康だった松平昌久や吉良義昭など周囲の国衆勢力も立ち上がっていて、徳川は敵勢力に囲まれてしまい、あと一歩で崩壊という最悪の状況に追い込まれました。
三河はもともと一向宗が強いエリアだったため、家臣団の中にも、寺側につく有力者たちが少なくなかったのです。
例えば、大河ドラマでも活躍が目立っていた本多正信や夏目広次(夏目吉信)、あるいは徳川十六神将にも数えられる蜂屋貞次などに加えて、渡辺守綱とその父・渡辺高綱など。
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そんな絶体絶命の状況でしたが、家康にとっては幸運にも、ちょうど今川が【遠州忩劇(えんしゅうそうげき)】と呼ばれる国内の反乱劇に追われ、立て直しの時間を得ます。
結果、守綱の父・高綱は三河一向一揆で討ち死にしながら、守綱は許され、家康の下へ帰参しました。
守綱だけでなく、家康はこの戦いで敵対していた者たちの多くを許しています。
「人をうまく使う」という家康の特長かもしれませんし、あるいはそうしなければ一揆勢に敗れるという危機感があったのかもしれません。
いずれにせよ帰参を許された渡辺守綱はその後、家康が直面するほとんどの合戦に従い奮戦します。
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